滝沢馬琴が記録した「蔦屋重三郎の最期」
大河ドラマの「べらぼう」もいよいよ終盤に差し掛かってきた。今までは戦国武将や幕末の志士などわが国の歴史を作ってきたヒーローが主役になることが多かったが、昨年の紫式部、そして今年の蔦屋重三郎と文化人が主人公になったのは画期的なことではないかと思われる。
蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)1月7日、新吉原に町人・丸山重助の子として生まれ、茶屋を営む喜多川氏の養子となった。見習い時代を経て1772年、22歳で日本橋に書店「耕書堂」を開業。朋誠堂喜三二、山東京伝、大田南畝などの戯作者や、喜多川歌麿、東洲斎写楽といった浮世絵師を抱えて、黄表紙や洒落本のベストセラーを出版し財を成したが、晩年は「寛政の改革」で出版弾圧と財産没収の憂き目にあう。これを乗り越えて再び出版業で成功をおさめるがその渦中、寛政9年(1797年)5月6日に脚気のため48歳で亡くなったという。
ただ、彼の死因となった病気がどういう経過をたどって発症し、どのような治療を受けたかという信頼できる資料はない。戯作者の滝沢馬琴は『近世物之本江戸作者部類』に「惜むべし、寛政九年の夏五月脚気を患ひて身まかりぬ。享年四十八歳なり」と重三郎の死を記録し、さらに『自撰自集』の中で「夏菊にむなしき枕見る日かな」と、追悼の句を記している。法名は幽玄院義山日盛信士で、吉原にほど近い台東区の正法寺の墓には今も香華が絶えない。
原因は「ビタミンB1」の不足
ビタミンB1(チアミン)の欠乏により生じる脚気は、多発神経炎、浮腫、心不全を三大症状とし、おそらく古くからあった病気であろうが、明確にこれを独立した疾患として記載したのはオランダ人、Jacob Bontiusである。1642年当時オランダ領だったジャワ島で、「この地域には現地人によって羊(beri)と呼ばれている厄介な病気がある。これは一種の麻痺で特に手足の知覚及び運動が著しく障害され、時に全身が侵されることもある」と報告している。
18~19世紀、ブラジルではキャッサバ粉と少量の乾燥肉を常食する奴隷に頻発し、英領ビルマ(現ミャンマー)やインドでも労働力を著しく低下させることから、英国の疫学者、Hirschは一種の毒素による中毒ではないかとしている。
米はアジア諸国の主食であるが、玄米には米糠の部分にビタミンB1がふくまれている。しかし玄米は固く、食味も良くないので精米の過程でこれが除去される。白米のほうが玄米よりもおいしいので、ある程度農業生産が進み、精米技術が進歩すれば白米が好まれるのは当然のことである。


