書き手の「意図」を汲み取る力

しかしだからこそむしろ、読解はより深いものへと向かわねばならない。すなわち、このような状況でなお読解力が必要とされるとすれば、それはことばの「意味」のレベルでなく、それより一段深い「意図」を感じさせるものを読む場合、ということになる。本書で言う読解力とは、「書き手の「意図」を汲み取る力」を指す。それは必ずしも文章の表面に現れていなかったり、軽く一読しただけではに落ちなかったりするようなものを汲みとって理解する力である。本書で扱うテクストは、それゆえどれもそれなりに歯ごたえのあるものとなる。

これは別に文学的テクストにのみあてはまることではない。どんなジャンルのテクストでも、それが人によって書かれたものであるかぎり、そこには意図がある。「はじめに」でも触れたように、2×2=4という無味乾燥な等式さえ、それがどんなテクストのどこに置かれているかを考えることで、書き手の意図を汲みとることができる。

文脈によっては、書かれていることの直接の意味とその裏にある意図とがずれる場合もある。こうしたときの意図を読む営みは、生成AIにはできず、人間がそれを汲みとる力を養わねばならない。

開かれた本の明るいイメージ
写真=iStock.com/M-A-U
※写真はイメージです

「論破」ほど虚しいものはない

また、この意味での読解力が今とりわけ重要なもう一つの理由は、前記のような情報環境が、著しい社会の分断をもたらしているからである。

氾濫する情報のすべてに対応していたら、読解はいきおい浅くならざるをえない。そしてその結果として、相手のことばの表層、あるいは一部だけを捕らえて、揚げ足取りのような批判合戦が繰り広げられている。

こうした読む力の欠如からくる論戦における「論破」ほどむなしいものはない。仮に相手をねじ伏せたとしても議論の前と後とで自分自身の意見に一切の変化がなかったとすれば、その時間は自分にとって無駄であった。そればかりか、お互いの真意を読めない/読まないまま、相手との間の溝を深め、敵を増やすだけだ。しかし、これこそが今のわれわれを取り巻く言論状況ではないか。最終的には批判するとしても、まずは相手の意図を正しく受け止めなければ、意味ある議論は生まれない。