書き手と読み手がピシッと噛み合う幸せな瞬間

読めた、というのは書き手と読み手がピシッとみ合った幸せな瞬間である。それは、テクストの文言の背景をどれだけ共有できるかによる。

(本書の)「はじめに」であげた例文に戻ろう。

「太郎はクマと同じくらいハチミツが好きだ」の解釈として、「太郎とクマはどちらもハチミツが好きだ」を採用し、「太郎は、クマとハチミツのどちらも好きだ」を退けたのは、「ハチミツはクマの好物だ」という前提知識に依拠していたからだ。それに基づいて、「太郎がいかにハチミツが好きかを強調するためにクマを引き合いに出したのだ」という書き手の意図を読んだ。

しかし、もしこのような前提知識が共有されていなければ、読みは揺れる。クマを大型の哺乳動物だとして読んだのも、実は無意識の前提によるもので、もしこれが落語の一節だったら、ハチは八五郎の愛称だったのかもしれない。

「太郎はネコと同じくらいネズミが好きだ」

またたとえば、

太郎はネコと同じくらいネズミが好きだ。

という文になるとどうだろう。人によって読みが分かれるのではないだろうか。太郎とネコがネズミ好きなのか、太郎がネコとネズミを好きなのか。「ネコはネズミを好んで捕食する」という前提知識はクマとハチミツの場合と同様だとすれば、違いはどこから生まれるのか。

それは、ネコとネズミがどちらも小型哺乳類であり、同列に並べやすいからだ。クマとハチミツの場合は、おそらく多くの人にとって動物と食物という異なるジャンルに属するものと考えられるだろう。その点で、太郎とクマの方が近い。

「AはBと同じくらいCが好き」という構文の危うさがき出しになったり、あるいはそれを無意識の裡に回避できたりするのには、A、B、Cのそれぞれが属するジャンルに関する前提知識が影響していた。

だから、

太郎はインコと同じくらいシマエナガが好きだ。

という文ならば、ここに記すまでもなく解釈は定まるだろう。もちろん、インコのみならず、シマエナガがなんであるかを知っていればの話であるが。