【玄侑】そうですね。誰かの存在によって自分がこうなる、っていうのが仏教的「縁起」の考え方だし、その相手が空也上人だったらどうなのか、というのはものすごい提案だと思います。ただ空也上人って1人じゃないですか。

「いま誰かと歩いてる最中だよ」と言われたら、もう来てもらえない(笑)。お地蔵さんって、だから増えたんだと思うんですよ。お地蔵さんが錫杖を持ってるのは、「呼ばれればすぐ行きます」っていう意味なんです。何かのときにはすぐ来てくれて、しばらく一緒に歩いてくれる。そういう存在は重要ですね。

【山田】確かに空也上人では限定しすぎかもしれません。ただ歩調を合わせて誰かが横を歩いてくれてるだけで、少し孤独から抜けられるときもあるかな、という程度のことなんです。

【玄侑】「同悲」ということかもしれませんね。救いを与えてくれるとかではなく、一緒になって悲しんでくれる。悲しみに同調してくれるという。

【山田】震災の被災者に対しても、一緒に歩く、同悲するということができればいいんでしょうね。ただ、自分の生活もありますし、こっちにもあっちにも「同悲」を感じすぎてはつぶれてしまいますし。

【玄侑】結局、いくつかに絞られてくるわけですけど、たえず普遍的なやり方っていうのはありえない。個別のやり方はぐずぐずしながら探ればいいんでしょうね。

【山田】本当に。「ぐずぐず」こそ、この時代を生きるために必要な姿勢なのかもしれませんね(笑)。

山田 太一
脚本家・作家。1934年、東京・浅草で食堂を営む両親のもとに生まれる。10歳で神奈川県湯河原に疎開。58年早稲田大学教育学部国文科卒業、松竹入社。名匠・木下惠介氏の助監督を務める。65年独立。73年テレビドラマ「それぞれの秋」で芸術選奨新人賞。83年「ふぞろいの林檎たち」シリーズがスタート。著書に『空也上人がいた』。

玄侑 宗久
臨済宗僧侶、小説家。1956年、福島県・三春町の福聚寺(ふくじゅうじ)に生まれる。慶應義塾大学文学部中国文学科卒業。工事現場作業員など様々な仕事を経験後、83年天龍寺専門道場入門。2001年『中陰の花』で芥川賞受賞。08年福聚寺住職。著書に『四雁川流景』『無常という力 「方丈記」に学ぶ心の在り方』。
(柳橋 閑=構成 牧田健太郎=撮影)
【関連記事】
「無常なる自己」を生きる -対談:玄侑宗久×山田太一【1】
検証!なぜ人は46歳が一番不幸なのか
今の20代はなぜお金がなくても幸せなのか
「ツイていない自分が変わった」きっかけ分析
自殺を考える若者が増加、何に悩んでいるか