江戸末期に寛政の改革をすすめた松平定信とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「格別の秀才だったが、それゆえに朝廷や将軍家とうまく折り合うことができなかった。あまりにも狭量なことが失脚の要因だろう」という――。
旧江戸城三の丸の東南(巽)側にあり全国でも最大級の二重櫓である「桜田巽櫓」(写真=Another Believer/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
松平定信が「辞職願」を出した真意
いまも昔も政治家は「改革」を旗印にしたがるが、政治家が思いつきで実行する改革のために、人々はどれだけ振り回されてきたことだろうか。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でもこのところ、松平定信(井上祐貴)が推し進める寛政の改革に、武士も町人も翻弄される模様が描かれている。
文武を奨励し、倹約を無理強いし、風紀を厳しく取り締まる定信に対しては、以前は反田沼の同志だった老中格の本多忠籌(矢島健一)や老中の松平信明(福山翔大)も、もはや我慢がならない。やはり定信をうっとうしく思いはじめていた一橋治済(生田斗真)と結びつき、反定信のグループを形成しつつあった。
第41回「歌麿筆美人大首絵」(10月26日放送)では、定信は芝居にも打って出た。将軍家斉(城桧吏)に嫡男が生まれて駆けつけた定信は、家斉と実父の一橋治済に「祝い」を渡したが、それは、将軍補佐役のほか、財政を握る勝手掛、大奥を管理する奥勤めの辞職願だった。
それを聞いた家斉が、うれしそうな表情を浮かべたのが示唆的だった。ただ、このときは尾張藩主の徳川宗睦(榎木孝明)が、定信との打ち合わせのとおりに異議をはさみ、定信は将軍補佐役にも勝手掛にも留まることになった。「辞職願」は、自分の地位をあらためて認めさせるために打った芝居だったのだ。しかし、それは定信の最後のあがきだった。
