豊臣秀吉は農民の子か足軽の子か
天下を統一した豊臣秀吉と、その補佐役筆頭の弟・秀長。彼らは知名度の高さに反して、出生については謎が多い。
通説上では農民出身だとされているが、江戸幕府の旗本・土屋知貞の記した『太閤素生記』によると、秀吉の父・木下弥右衛門は織田家の鉄砲足軽だったとする。弥右衛門は尾張国中村(もしくは中々村。現在の愛知県名古屋市中村区)の出身で、戦で負傷し、農民になった。
その後、御器所村(現在の名古屋市昭和区)から妻を娶り、秀吉とその姉(瑞龍院)が生まれたとされる。ただし、日本への鉄砲伝来は天文12(1543)年ごろとされ、『太閤素生記』内では、この年に弥右衛門が死んでいる。記述に矛盾が生じてしまい、信憑性は高いとはいえない。
江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した『甫庵太閤記』(以下、『太閤記』)によると、父は尾張の水呑百姓(自分の土地をもたず、年貢を負担しない農民)・竹阿弥だとしている。織田家に仕官する際、秀吉は「先祖は木下姓をもつ豪農だったが父の代までに没落した」と語ったとする。
さらに、ルイス・フロイスの『日本史』にも、「貧しい百姓の倅」と記されている。いずれにせよ、先祖は秀吉の代までに落ちぶれていた可能性は高い。
いつ生まれたのかもよくわからない
このほかには、昭和34(1959)年に愛知県江南市で発見された『前野家文書』(武功夜話)の「生国は尾張中村在、村長の倅なり」という記述から、現役の豪農であったとする説。秀吉の母は美濃国(現在の岐阜県南部)の鍛冶屋出身とする異説から鍛冶屋説。
秀吉の馬験(戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗と併せて用いられた、木や竹などの柄を付けた装飾物)である瓢簞は陰陽道の呪物でもあるので、民間陰陽師の出とする説などがある。
秀吉の生年については「天文5(1536)年」と「天文6(1537)年」の2つの説があり、天文5年説は『太閤素生記』で広められたが、現在、通説となりつつあるのは天文6年説である。
天正18(1590)年12月吉日付で、秀吉家臣の伊藤秀盛が石徹白神社に奉納した願文写(仏教儀式や祈願の際に用いられる「願文」を書き写したもの)によると、この年の秀吉は数え54歳だった。そこから逆算すると、天文6年生まれとなる。
ほかには、秀吉の御伽衆(将軍や大名の側近として、話し相手や相談相手を務めた人々)の大村由己が記した『天正記』内の「関白任官記」も根拠となる。このなかで大村は、秀吉の生年月日を「誕生の年月を算ふれば、丁酉2月6日吉辰(吉日)なり」と記している。丁酉は天文6年にあたる。これらの記述から、秀吉が天文6年生まれである可能性は高い。

