どんなに忙しくても仕事をこなすには、どうすればいいのか。90歳になっても現役で活躍する作家・阿刀田高さんは「私は、根は徹底的に怠け者だが、原稿の締め切りは守る。よく怠けるために精いっぱいの工夫をしているのだ」という――。

※本稿は、阿刀田高『90歳、男のひとり暮らし』(新潮社)の一部を抜粋・再編集したものです。

原稿用紙と万年筆
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90歳、自分の生涯を振り返る

今日このごろ“米寿”だの“白寿”だの言われると、

──もう一つ似たのがあったな──

つまり、而立じりつ、不惑、知命ちめい耳順じじゅん……『論語』である。読者諸賢もご承知でしょう。

孔子が自分の人生を顧みて“吾れ十ゆう五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にしてみみしたがう。七十にして心の欲する所に従ってのりえず”と総括している。

2500年も昔の言葉だが、私も90歳となり自分の生涯を思い合わせてみたくなり、15歳は“学に志す”のはわかる。私は高校生、「勉強しなくちゃ」と思っていた。

しかし“三十にして立つ”はどうかな。サラリーマンになっていたけれど“立つ”と言うほどりっぱではない。

一番迷っていたのが、40代

44歳で直木賞を受け、このあたりでようやく立っているだろう。“四十にして惑わず”なんてトンデモナイ。一番迷っていたのが40代、皆さんもそうでしょ。50歳になって“天命を知る”も、そんな大袈裟なことではなく“俺の人生はこんなものか”あえて言えば天が与えてくれるものはこのあたりと感じていたような気がする。

“耳順う”は下世話に言えば“他人の意見をよく聞く”こと。私は、まあ、気弱いところもあって若いときからこの傾向はあった。そして70にして心の欲する所に従っても矩(法や倫理)を逸脱しないのは、「孔子さん、それって老化現象じゃないんですか」。

いや、いや、中身はもっと深いのだろう。私など矩を踰えてまで欲することなどみんななくなってしまった。寂しいですね。あなたはいかがですか。

生涯たった唯一の「泥酔した記憶」

論語とはべつに90歳になって改めて気づくことがないでもない。

たとえば酒……。20代から飲んでいた。清酒、ウイスキィ、ビール、焼酎、なんでもよかった。安いのがもっぱらだった。

20歳の誕生日のころ、衆議院の選挙が直後に迫っていた。が、選挙用紙が(事務の遅れも仕方ない)届いてない。私は健気にもわざわざ役所まで赴いて用紙をもらった。民主主義国家の成人としてあらまほしい、りっぱな行動だろう。母が夕食に祝い酒を一本そえてくれた。“二十にして飲む”であった。

30歳前後、これも偶然、誕生日だったような覚えがある。旧友と久しぶりに会い焼酎をしたたかに飲んだ。とてもうまい。友と別れて独り帰路、駅のホームの隅の隅、トイレットの近くで崩れてしまった。