徳川家康が晩年に建てた名古屋城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「江戸城の初代天守に次ぐ規模だった。スケールだけでなく、外見や見事な障壁画などからは家康にとって特別な城だったことを感じさせる」という――。
名古屋城の天守と本丸御殿
名古屋城の天守と本丸御殿(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

なぜ徳川家康は名古屋に巨大な城を建てたのか

名古屋城の築城工事がはじまったのは慶長15年(1610)のことだった。つまり、関ヶ原合戦が終わって10年後に新造された、比較的「新しい」城だということになる。築城を命じたのは徳川家康で、家康みずから名古屋の地を選び、大規模な城郭を築いた。それにはわけがあった。

織田信長や豊臣秀吉の出身地でもある尾張国(愛知県西部)は、東国と畿内を結ぶ枢要の地だった。ただし、その中心都市はしばらく清州だった。

関ヶ原合戦ののちに家康は、豊臣恩顧の大名の代表格であった福島正則を、その清州から広島に移封。代わりに自身の四男である松平忠吉を、52万石の大禄で清州に置いた。このことからも、家康がいかに尾張を重視していたかがわかる。

だが、その忠吉は慶長12年(1607)に早世してしまう。そこで家康は、当時はまだ8歳だった九男の義直を清州城主に指名し、2年後に入城させた。ところが、すぐに清州を廃城にし、かつて織田信長が幼少期をすごした那古屋城の旧地に、まったく新しく築城することを決意するのである。