本よりも必要なもの

文中に登場するアフリカの国と町。

モーリタニアの首都ヌアクショットに着いてからのぼくの行動は、とにかく早かった。ぼくにとっては、アフリカに行った事実だけが重要なのである。一日も早く日本に帰りたかった。

けれど、一方で、本屋さん好きなので、アフリカの本屋さんも見てみたかった。ぼくは約1ヵ月間かけて、モーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナファソ、ガーナを、バスと電車で移動していったのだが、結論からいうと、町を歩いていて、本屋さんを見かけることなど一度もなかった。もっといえば、本を見かけたことすら、ほとんどなかった。

覚えているのは、マーケットに置いてあった、何年もの間に何人もの人に読まれたのだろう、ボロボロの古い『Newsweek』と、あと、1枚の木の板であった。

その30センチほどの長い木の板には、コーランの文言が書かれていた。セネガル川を渡る小さなボートの上で、小学校低学年くらいの黒人の男の子が、痩せた体には大きすぎるその板を、大切そうに抱えていた。

本の、言葉の本質を見た気がした。

アフリカを出る3日前に、ぼくは、ガーナの首都アクラで、たくさんの人に本屋さんはありませんか? と尋ね回った。なんというか、本屋さんに入れば、少しは、故郷に帰った気持ちになるだろうと思った。

2軒あった。

1軒は、古本屋さんであった。その店は市場の外れの2階にあり、30坪弱の敷地には、一昔前の小説や、有名人の自伝や、角の折れたビジネス書など、そんなものばかりが置いてあった。経営者は白人であった。お客さんたちもみな白人であった。下の市場は黒人たちの熱気で溢れ返っているのに、この店だけが別空間のように静かで、アフリカとは異なる時間が流れていた。

ぼくが見たかったのは、そんな本屋さんではなかった。ガーナの町の本屋さんともいうべき、そんな本屋さんへ行ってみたかった。

けれど、きっと、そんな店はなかった。いまのガーナは知らない。でも、ぼくが旅した10年前に、ガーナに、町の本屋さんはなかった。

人びとの生活には、本よりも必要なものがあった。それは、間違いなく、食べ物であり、衣服であり、薬であった。家族や友だちがマラリアで死んだという話を、ぼくはこの地で何回も聞いた。ここでは、本よりも、信仰のほうが大切であった。

ぼくが最後に訪ねたのは、ガーナ大学の書籍部だった。

ここならたくさんあると思っていた。なんといっても、ガーナ最大の大学であり、国の根幹を支えているともいうべき教育機関の本屋さんである。

市の中心から乗り合いバスで30分ほどかかった。

そして、正確には、もう、覚えてないのである。

たしか、広さは30坪もなかったような気がする。

棚はガラガラであった。並んでいる本もすべてが古かった。古本屋さんのように、ページのいちばん最後に手描きで値段が記してあった。

もしかしたら、もう1軒、大学の敷地内に別の書店があったのかもしれなかった。

でも、ぼくが教えてもらった本屋さんは、ここだった。

ぼくは、1時間くらい書棚をながめてから、ナイジェリアの小説を1冊買った。

この本を買うために、アフリカまでやってきたのだ。

そんなふうにも思えてきた。

失恋は遠いむかしの話であった。

『八月の光
 ウィリム・フォークナー新潮社

●次回予告
全国の本屋さんを取材してつくられた『本屋図鑑』。手にした人は、本屋さんを描くイラストに目を惹かれる。描き込まれた書棚を「読む」ようにじっと見る。なぜ写真ではなくイラストにしたのだろうか。島田さんが語る『本屋図鑑』のつくり方。次回《「図鑑」の理由》。8月11日(日)公開予定。

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