狩猟採取社会の人々が、現代人より健康であったかといえば十中八、九、その逆であったろう。しかし、当時の人々の健康状態はかつて想像されたほど劣悪な状態ではなかったことも明らかになってきている。天然痘や麻疹、風疹、水痘、インフルエンザといった感染症は存在せず、癌や循環器系疾患を引き起こす環境要因も現代に比べてはるかに少数であったに違いない。
転換点は農耕の開始であった。農耕の発明は単位面積あたりの収穫量増大を通して土地の人口支持力を高め、余剰作物は家畜飼育を可能にした。家畜飼育の開始は、動物からヒトへ微生物の伝播を引き起こした。
例えば、天然痘はウシの感染症で、麻疹ウイルスはイヌのジステンパーが変異したものだ。インフルエンザはブタと関係が深い。こうした感染症は家畜との濃厚な接触を通して初めて人間に流行することとなる。一方、人口規模の拡大は流行の土壌となった。感染症の流行には、ある規模の人口集団が必要なのだ。
感染した人は死亡するか、回復し免疫を獲得するかどちらかである。感染症をこうしたマクロな生態学の立場から理解しようとした本に『伝染病の生態学』という本がある。著者のF・M・バーネットはオーストラリア生まれのウイルス、免疫学者だ。クローン選択説や免疫的寛容に関する基礎研究で1960年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。やや古い本であるが、生態系や、その変化の中で感染症を考えるうえでは新鮮でさえある。環境破壊や地球温暖化が地球規模の課題となる中、感染症をそうした問題と併せて考えるうえでもお勧めだ。『疾病と世界史』の著者のウィリアム・H・マクニールは、文明システムは感染症を貯蔵する装置として機能し、感染症の定期的流行は集団に免疫を付与してきたと言う。それぞれの文明は固有の感染症を貯蔵し、文明圏に属している人々は固有の感染症に対する免疫を獲得する。こうした疾病レパートリーを持ったそれぞれの文明を「疾病文明圏」と呼ぶ。異なる文明圏では戦争や交易といった接触を通して疾病の交換が行われ、それぞれの文明圏における疾病レパートリーは増加する。同時にそれぞれの文明圏の持つレパートリーは均質化していくというのがマクニールの主張である。
ヒマラヤ山麓地方の風土病であったペストの中世ヨーロッパにおける大流行も、こうした視点に立てば、ユーラシア大陸での疾病交換と均質化の過程だったとみることができる。著者はカナダ生まれで、一生を通じた研究テーマは「西洋の台頭」であり、西洋文明が他の文明に及ぼした影響であった。が、著作を通して感染症研究者に与えた影響は大きい。私自身、この本を読んで、感染症に関わる学問の道を志したという研究者に欧米で数多く出会った。
進化生物学者のジャレド・ダイアモンドもその一人だ。彼は、『銃・病原菌・鉄』の中で、ヨーロッパ人が他の大陸を征服することに成功したのは、ユーラシア大陸の環境要因で、家畜との接触を通し、感染症に対する免疫を獲得した強さなどによると説いている。