東ヨーロッパに位置するルーマニアには、今も古くからの魔女文化が残っているという。言語学者の角悠介さんが2003年に現地留学した際のエピソードを著書『呪文の言語学』(作品社)より、一部紹介する――。
日没時のルーマニア・ブラショヴの丘の頂上にある国旗
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日本人は知らない不思議の国・ルーマニア

初めて訪れたルーマニア。そこに広がっていた光景は想像していた世界と異なっていた。まず空港に着くと私だけが職員たちによって別室に隔離され、トランクの荷物をすべてチェックされた。そして空港から寮までタクシーに乗り、運転手にぼったくられるところからルーマニアでの人生が始まった。

EU加盟以降生活水準が上がったルーマニアであるが、当時(2003年=編集註)は貧しかった。

店に行っても商品がなく、常に棚ががらがらだった。洗濯機も普及し始めたばかりであり、店にはまだ手洗い用と洗濯機用の2種類の洗濯用洗剤が売られていた。車体に泥がこびりつき窓ガラスが割れた自動車が穴だらけの道路を走り、馬糞をおっことしながら走る馬車を追い抜いていく。街にも外国人がほとんどいなかった。アジア人は特に目立つため、道を歩けばほぼ毎日からかわれた。空き巣にもあった。冬は道に凍死体が転がっていることもある。蛇口をひねれば錆で赤茶色の水が出る。そして停電や断水は今でも日常茶飯事だ。

しかし旧ソ連圏やバルカン半島に留学した人は誰しも似たような経験をしていることだろう。この程度の話は「留学あるある」といえる。

しかし、ルーマニアはやはりちょっと、いや、だいぶ不思議な国である。他の国では決して見ることはないであろう「留学ないない」もいろいろあった。

耳に綿を詰めた人の謎

その1つが「耳に綿を詰めた人」の存在である。今でも横断歩道で信号待ちをしていると、隣に立つ人の耳の穴に白い綿が詰められているのを見かけることがある。初めて遭遇した時は「手術でもした後なのかな」と思っていたが、他所でも耳に綿を詰めた人をやたら見かける。よく観察すると、必ず片方の耳だけに綿が詰まっている。これはただごとではない。

当時私は学生寮に住んでいた。寮の受付では数人の若いルーマニア人の学生が受付係として交代で働いていた。私は暇があると受付係と立ち話をしながらルーマニア語を教わっていた。ある時、受付の女性の片耳にも白い綿が詰められているのに気付いた私は、その理由を恐る恐る尋ねた。

彼女は「クレント除けのため」と言った。ルーマニア語のクレント(curent)ということばは「(水や空気や電気などの)流れ」を表す。彼女曰く、「風の流れによって人は病気になる。これを防ぐ方法の1つが、片方の耳の穴に綿を詰めること」であるという。ここでのクレントは「空気の流れ」だ。