人生の節目節目で「病」に振り回される

漱石は慶応3(1867)年生まれで、明治の年号と満年齢が重なります。慶応4年が明治元年となり、このとき漱石の年齢は1歳。明治2年に2歳、明治3年に3歳……というように、まさに明治時代とともに成長したわけです。

漱石の人生は、幼いころから波瀾に満ちていました。

そもそも漱石は、生まれてすぐに養子に出されます。ところが、養父母の間で問題が起こり、9歳のとき、また夏目家に引きとられることになります。どこにも居場所がないなかで幼少期を過ごしたのが、漱石なのです。

その後、帝国大学英文科に進学しますが、23歳のときにコレラ(細菌性の感染症)が大流行。漱石自身はコレラの罹患を免れたのですが、前述のように20歳のときにトラホーム(伝染性の結膜炎)にかかっています。

初恋の相手は、24歳のときに通院していた眼科の待合室でひと目惚れした女性でした。

とにかく人生の節目節目において、「病」が漱石を振り回します。

座禅で精神を鎮めようとするも挫折、留学で神経衰弱が悪化肉体的な病が重なったことに加え、幼少期の精神的な負担の影響もあって、漱石には心理的なストレスが積み重なるようになります。

大学を卒業してから士官学校で英語の嘱託教師になりますが、この仕事がかなり厳しく、精神的に追い詰められたこともありました。

そのため、漱石は鎌倉・円覚寺で座禅を組むなど、自らの精神を鎮めようとしますが、結局のところ解決策は見つかりません。この体験は、漱石の神経衰弱や精神的な苦しみと結びついており、著作における本質的なテーマになります。

英語教師となるも生徒から反発される

32歳のときにはロンドンへ留学しますが、当時は黄色人種に対する人種差別が厳しく、漱石自身、外出することを嫌がりました。

また、留学費の不足や孤独感から、神経衰弱はますます悪化してしまいます。「夏目漱石がロンドンで発狂した」という噂まで広まったくらいです。

結局、2年の留学期間を終え、ようやく日本に戻ります。ところが、漱石のトラブルはまだまだ終わらなかったのです。

帰国後、漱石は明治政府の西洋学問の推進にともない、英語の嘱託教師として、第一高等学校(現・東京大学教養学部)で教壇に立つことになりました。

この仕事自体はよかったのですが、問題は前任の英語の先生のほうが、人気があったということです。

漱石の前任者は、ラフカディオ・ハーンという人物。帰化して日本人女性・小泉節子と結婚し、「小泉八雲」と名乗るようになった明治の文豪です。

アイルランド、フランス、アメリカ、西インド諸島、日本と放浪を続けた経験の豊かさと話のうまさが相まって、生徒たちの興味・関心を巧みに引き込んだのです。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の肖像(画像= Frederick Gutekunst/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それに対して漱石は文法や訳文に重点を置き、元来神経質なところも相まって生徒たちの人気は高まりませんでした。

結果として、生徒たちに人気のあったハーン先生が解雇され、人気のない漱石が新しい英語の先生になることに反発した生徒たちが、「前の先生のほうがよかった」と授業をボイコットしたのです。

漱石は、その反発を突っぱねて、生徒たちを厳しく指導しましたが、精神的に悪影響を及ぼしたことは想像に難くないでしょう。

しかし、漱石の悲劇はまだまだ終わりません。