前年には三井の炭鉱で458人の犠牲者を出す大事故が起きていた
前年の1963年には戦後最悪と言われる福岡の「三井三池炭鉱大爆発事故」が起きていた。犠牲者の数はなんと458人。
この事故は人災の要素が大きく、10両編成の鉱車の連結器が切れて坑内を暴走。堆積していた炭じんによって火花が引火、大爆発を起こしたという。救出され、かろうじて一命を取り留めた839人も一酸化炭素中毒で、歩行や会話が困難になる、記憶力が低下するなどの高次脳機能障害を負った。もちろん、経営する三井鉱山は、この事故で大損害を負うことになった。
そんな大事故のニュースは、当然、端島の炭鉱夫もみな知っていて、同じような事故が起こることを恐れていただろう。WEBサイト「軍艦島デジタルミュージアム」には、元島民による証言が掲載されている。
端島の炭鉱夫だった父親は、8月17日当日、坑内に入って採炭作業することになっていたが、なぜか胸騒ぎがして出勤したくなくなり、親しい友人に交代してもらったところ、事故が発生。その友人は事故でケガを負ってしまい、父親は罪悪感を抱えることになったという。
軍艦島ナビゲーター・木下稔氏による「事故のトラウマ」
辰雄(沢村一樹)のモデルか、松倉慶次炭鉱長は水没を決断
端島の事故では19日の夜にも再びガス燃焼事故が起こり、作業中の坑内夫8人がヤケドをした。くすぶりつづける火を消すため、土のうで坑道の密閉していたところで、また突然ガスが燃焼したのだ。ヤケドをした8人はすぐに救護隊員によって病院に担ぎ込まれた。
「海に眠るダイヤモンド」の辰雄(沢村一樹)のモデルとも思われる松倉慶次炭鉱長は、1940年に東京大学工学部を卒業し三菱に入った技術力のあるトップだったようだが、『三菱鉱業社史』が記録するように、消しても消しても続く火災にお手上げ、為す術がなかったのだろう。
長崎新聞にも「同鉱は安全目標に“自然発火”の防止をかかげ、この3年間一度もこのような事故を起こしてはおらず、この日消火作業に当たっていた稲池さんらは坑内保安技術のベテラン。ガス発生の観測も怠らなかったと思われるだけに、関係者も事故の原因に首をかしげている。」(1964年8月18日付朝刊)。