なぜ島津だけが本領を安堵されたのか
もちろん、日本の最南端という地理的状況も、島津家に有利に働いただろう。家康と親しい近衛前久が仲介に当たったことも指摘される。加えて、義弘の人徳を無視することができない。
勇猛で誠実な義弘はその人間性が尊敬され、福島正則も損得抜きで支援を申し出たし、傷を負わされた井伊直政にして、島津家に寛大に対応するように家康に進言している。元和5年(1619)に義弘が死去した際、幕府はすでに殉死を禁じていたにもかかわらず、13人が後を追ったという記録からも、その人徳がうかがい知れる。
とはいえ、島津家の当主に頭を下げさせないかぎり、家康の面目は立たない。そこで義久の上洛をうながしたが、高齢などを理由に応じない。結局、慶長7年(1602)12月、義久の代わりに甥の忠恒が上洛することで決着がつき、島津家の本領は安堵された。
ところで、関ヶ原から逃げ帰った西軍の将には、五大老の宇喜多秀家もいた。秀家は家康側の追跡をかわして薩摩まで逃げ切り、島津家の庇護下に入っていた。だが、家康が忠恒と和睦するにあたって秀家の存在が問題になり、身の安全が守られることを条件に家康側に引き渡された。
秀家はいったん久能山(静岡県静岡市)に置かれたうえで、慶長8年(1603)9月に八丈島に流され、そこで明暦元年(1655)まで生きた。子孫も長く八丈島で暮らすことになった。捕縛されていれば処刑された可能性が高いが、島津のもとまで逃げて助かった。この点でも、島津だけが「逃げるが勝ち」だったのである。