海外輸出のまえに自動車学校を作つくったワケ

第一に、トヨタは本拠地である日本に、マーケティング、販売、流通、教育、サービス、製品サポート等、自動車業界に付随するあらゆる職種を引き入れるローカル市場を創造した。

一例として、トヨタは名古屋の中部日本自動車学校を設立している。これが他の自動車学校のモデルとなって、日本での自動車の普及に貢献するとともに、トヨタ車の販売台数も押し上げた。

もしトヨタがたんに安い労働力を利用して自動車を生産し、外国に輸出するという低コスト戦略を取っていたなら、自動車学校には投資しなかっただろうし、その自動車学校に1958年、新入社員にトヨタのセールスメソッドを教育するための「トヨタ・セールスカレッジ」を設置することもなかっただろう(その後、「日進研修センター」を建設)。

無消費をターゲットにするには、プロダクトの効果的な製造や出荷に関する専門知識だけでなく、その地域の実情に関する知識も不可欠となる。

第二に、無消費をターゲットとした戦略が成功したことで、活気ある市場が生まれ、長期的な雇用を創出する土壌が形成された。

物づくりのまえに人を育てなければならない

トヨタが新しい工場を設立し、国内の消費者に向けてますます多くの車を販売するようになると、より多くの従業員が必要となった。たとえば、多くの会社が豊田市(豊田という市の名称は、トヨタがそこに会社と工場を置いたことに由来する)で自動車の製造にかかわるようになり、1962年には2.7だった求人倍率が、1970年には7.1にまで増加している。

また、全国のトヨタの販売店数は1938年にはわずか29店だったが、1980年には300店を超えた。トヨタの成長を雇用面で見ると、圧巻としか言いようがない。

1957年、トヨタの従業員数は約6300人だったが、10年後には5倍以上の約3万2000人となった。本書の執筆時点で、トヨタは日本の7万人を含め、全世界で36万9000人以上の従業員を雇用している。

初代会長である豊田英二は、従業員の教育および育成に関する方針について、「物をつくるのは人だ。したがって、物づくりのまえに人を育てなければならない」と述べている。

豊田英二(1913年9月12日―2013年9月17日)(写真=『トヨタ自動車20年史』/トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

こうした方針が、専門の教育訓練部門の設置や、販売店で働く中堅従業員の教育を目的とした職業訓練学校の設立につながった。