食べることで全てが変わる

30代論の対象書籍には一冊、非常に示唆的な著作がありました。ダイエットカウンセラー・伊達友美さんによる『30歳から食べ方変えて結婚できる方法』です。とはいえ、同書のタイトルの意味が分からないという方もいるかもしれませんね。そこで、順を追って内容を見ていきたいと思います。伊達さんはまずこう述べます。

「『恋愛や婚活がうまくいかない』と嘆く人は、どうすればうまくいくのでしょう? 私の意見としてはとてもシンプルに、みんな“食べ方がちょっとヘタ”なだけ。それだけなんです。幸せになりたいなら、今までより“ちょっと上手に食べられる”ようになりさえすればいいんです」(3p)

これでも全然分からないかもしれませんので、伊達さんが「食べ方」という言葉で指す意味について考えてみましょう。これは言葉通りの「食べ方」というよりは、主に「何を食べるか」という意味で使われています。この点をもう少し見ていきます。

伊達さんは、健康のため、お通じのため、ダイエットのための食事に疑問を呈します。それは、「好きでもないもの」(21p)で体をつくっているのではないか、と。そして、好きでもないもので自分自身が出来上がっているのなら、「自分のことを好きになれなくて、当たり前でしょう」(22p)というのです。

自分が好きではないということは、他の「年齢本」と同様に問題とされますが、伊達さんの議論の流れとしてはこのように問題化されます。

「自分のことを好きでもない人が、人のことを好きになるのは、順番が間違っているような気がしませんか?(中略。自分のことが好きでないなら:引用者注)彼があなたのことを好きだと言っても、『私のことが好き? は? どこが!?』ということになるでしょう。(中略)じゃあどうしたら、自分のことを好きになれるの? どうすれば今の自分をありのまま認めて、自信をもつことができるのでしょう。そのためにはまず、“食べものを変えること”なんです」(18-19p)

「食べものを変えること」の基準は、「ちゃんと好きなものを食べること」(24p)です。好きなもので自分を作り上げ、また栄養をしっかり取って脳に活力を与えれば、「明るく前向きになり、コミュニケーション力も仕事力も、恋愛力だって自然と変わってくるでしょう」(23p)というのです。

同書ではまた、「好きな食べものを探る」(87p)ことが勧められます。あるいは、「人生最後の食事には、何が食べたい?」(96p)と考えてみることも促されます。このとき、「食べたいものがすぐに思い浮かぶということは、五感がきちんと働いている」(97p)こととして称揚されます。それに対して、好きな食べものが思い浮かばないことや、「なんとなく」で選んでしまうと、「食べるものなのに、あなたの体をつくるものなのに、意識がなさすぎませんか!?」(91p)として叱られることになります。

ここがポイントです。伊達さんは、この「なんとなく」選ぶということが、食べものだけに限られないというのです。「いつもいつもそうやって選んでいると、洋服も、バッグも、家具も、つき合う男性も『なんとなく』で選んでしまうかもしれません」(91p)というのです。自分を好きになるだけでなく、恋愛の相手を含めた、人生のあらゆる選択に対して意識的になるためのレッスンとして、「好きな食べもの」が重要視されているのです。たかが食べものではないのだ、食べものの好みを考えることは、人生全体にわたる感受性について考えることに通じるのだ、というわけです。

ここまで見てくると、伊達さんが「自分のことを少し好きになった状態で、改めて彼氏や結婚相手を探せば、以前よりもずっと、好みの合う相手を探しやすくなるでしょう」(35-36p)とも述べることの意味も分かると思います。好きな食べものを食べて自分が好きになれば、より恋愛に対して積極的になれ、また自分の好みがはっきりすれば、男性の好みもよりはっきりしたものになる、というわけです。

とはいえ、食べものと恋愛、人生はあまりにも文脈が違うのではないかと思われるかもしれません。しかし伊達さんの主張は、二つの意味で多くの読者を惹きつけるものだと私は考えます。一つは、食というものは、誰もが経験する、最も日常的に「自分らしさ」を確認する行為だからです。

どんなものをどのように食べるか、どれくらい食べるか、日に通常三度行われるこのごく個人的な 経験は、社会学者デボラ・ラプトンさんが『食べることの社会学――《食・身体・自己》』で述べるように「私たちの主観的な経験、あるいは、自己感覚のまさに中心」(同書「はじめに」)にあります。良い、栄養のある、健康にいい、自然な、好きな(あるいはこれらの逆の)ものを自ら選んで食べるということを、他のどんな経験よりも直接的に私たちは日々経験しています。このように私たちにあまりにも身近な食という経験があなた自身を表しているのだとされたとき、その主張に惹きつけられる人は少なくないはずです。

もう一点は、特に現代の女性において、食は自己意識と強く結びついていると考えられるためです。加藤まどか『拒食と過食の社会学――交差する現代社会の規範』、シャーリーン・ヘス=バイバー『誰が摂食障害をつくるのか――女性の身体イメージとからだビジネス』でそれぞれ論じられているように、食べることは特に女性にとって、理想的とされる身体イメージ(そもそもこの理想的イメージが「やせ過ぎている」ことが問題なのですが)から遠ざかるという罪悪感のもとに経験されることがあります。摂食障害は一つの極限例かもしれませんが、概して現代社会では、女性において 、食という経験はあなた自身を表しているという主張がより響くのではないかと考えられます。

さて、先に伊達さんの著作が示唆的であるとして、その紹介をしてきたのですが、示唆的というのは、今述べたような「食と自己意識と女性」との結びつきを考えさせるというだけに留まりません。それについて次に述べたいと思います。