ネットメディアも新人育成を試みたが…

私はかつて「黒船」と呼ばれたアメリカ発のネットメディアに立ち上げから関わったことがあったが、日本ではわずか数年で報道部門は無くなった。端的にいえば収益化が難しくなったからだ。

インターネット「だけ」のニュースメディアで成長を遂げたところはほとんどと言っていいほどになくなった。そこに日本のメディアの危機がある。2010年代後半に、気鋭のインターネットメディアを率いた編集長は私にこんなことを言った。

「うちも新人を採用します。1回で終わらせず継続して取ろうと思っています。うちで本物のジャーナリストを育成できるか、それとも新聞のほうがうまく育成できるのか。そこは勝負ですね」

彼の構想は数年もしないうちにあっという間に崩れ去った。当時の新人は他社に転じてしまい、インターネットメディアで新聞社以上の規模での新人育成がうまくいったという話はまったく聞かない。

さらに言えば人材育成やスキルアップもなかなか難しい。

これも現状は、という注釈はつくがネットメディアから出てきた“ジャーナリスト”の記事はどうしてもオピニオン中心という傾向が強く、粘り強くファクトをとってくる技術に乏しいように思う。問題はそれだけではない。推測に推測を重ねたような緩い表現が横行し、情報の重みづけができておらず、陰謀論すれすれか過剰なオピニオンで売り物になる原稿が拡散していく。

新聞記者出身だからファクトベースになっているとは断言できないのは悲しいところだが、現状、新聞社が弱っていけば、その分だけ一から取材して何らかの形でアウトプットに繋げることができるジャーナリストの数は減る。どんな市場でも言えることだが、競争が弱まっていけば、技量を高めようというインセンティブも弱まる。

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「エモい言葉」はメディアをどう変えたのか

そんな時代にあって、新聞社が好転する道があるのか否か、私にはまったくわからないが、少なくとも陥ってはいけない道は見える。

まずシェア数、PV数、コミュニティ重視に陥って崩壊した10年代のネットメディアの模倣をしないことである。社会学者の西田亮介氏が朝日新聞のウェブサイトでそこまで「エモい記事」がいるのか? と問題提起をしたことが業界内で話題となったとき、思い出したことがある。

私は著書の中で、「エモい」という言葉を10年代に流行した象徴的な言葉と記したことがあった。10年代に一緒に働いていた若いライターたちがよく使っていた言葉で、彼らが指標としていたのは感情が突き動かされる「強さ」の度合いだった。「エモい」は褒め言葉で、人々の感情を刺激する強さが強ければ強いほど良いとされていた。

結果、何が起きたのか。人々の感情を刺激する「強い」言葉を選び、ライターもまたコミュニティの価値観を強く代弁し、常に正しく、強い言葉を使うようになった。そこに継続性はまったくなかった。