1年半でイギリス人に身請けされ、「ダイヤモンドおなご」と呼ばれる

春代は1年半、娼館で働いた後、18歳でイギリス人のフォックスという男性(当時27歳)に身請けされる。「身請け」とは、娼館への借金を肩代わりして精算し、娼館をやめさせることだ。シンガポールでは、そのようにしてイギリス人が現地で娼婦を愛人にすることは珍しくなかった。

当時春代には他に好きなイギリス人がいたが、強引に身請けしたフォックスと8年間暮らすことになった。フォックスは宝飾品をたくさん買い与え、島原の実家にも送金してくれた。身請けされた後、春代は日本人の間で「ダイヤモンドおなご」と呼ばれることもあり、経済的には不自由のない生活を送ることができた。

しかし、結婚をして子どもを持つという生き方は選べなかった。22歳の頃、妊娠が分かった際は、フォックスに中絶と不妊手術を迫られた。「ハーフで生まれると子どもが差別に遭う」「正式に結婚しておらず、日本人娼婦との関係はイギリス人コミュニティで悪く言われる」といった彼の言う理由からだった。春代は自分も承諾して手術したと説明するが、こう漏らす。

妊娠するも中絶と不妊手術を求められ、後年まで心の傷に

〈おれは大喜びしてます。おめでとう、みたような気持ちを抱いとったわけですたい〉

〈ところが、ある朝、相談があるちゅうとですもん〉

〈おろせっていうとですたい〉

〈今度は殺してしもうたとよ。子宮をば〉

中絶や不妊手術は今も昔も女性にとって非常に重い決断だ。ここまで苦労を重ねてきた春代には、妊娠は幸せを実感できる数少ない出来事だったに違いない。だから、70歳を過ぎて振り返っても、言葉の端々に深い苦悩や動揺がにじむ。語られた内容を分析している嶽本氏も、「思い出したくない経験を吐露しているからか、それまでの受け答えはしっかりしていたのに、このときの語りは意味を把握するのが難しいほど錯綜しています」と指摘する。

ちなみに、その当時の中絶や不妊手術はどのように行われていたのだろうか。シンガポールの医療事情は不明だが、日本の明治期などの手法を参考までに紹介する。江戸時代の中絶方法を調べた中央社会事業協会社会事業研究所編『堕胎間引きの研究』(1936年)によると、堕胎は平安時代から行われ、江戸時代にさかんになった。