インド神話の女神にちなんだ名づけ

1963年に2人は結婚した。ジャマイカが英国からの独立を達成した翌年だった。この年の11月1日の「キングストン・グリーナー」紙には、2人とも博士号の取得を目指していると報じられている。1964年にカマラ・デヴィが、そして彼女の妹のマヤ・ラクシミがその2年後に生まれた。デヴィというのはヒンドゥー教の女神の名前で、ラクシミは蓮の女神で富と美と幸運の神の名前だった。2004年に「ロサンゼルス・タイムズ」紙の記者に、シャーマラはこう語っている。娘たちの名前はインド神話から付けた。2人に自分たちの文化的独自性を保ってもらいたかったから。さらに、「女神を崇拝する文化は強い女性を生み出すの」と続けた。

1960年代の半ばから後半にかけて、カマラの親は二人とも公民権運動にのめり込んでいた。彼女は乳母車ベビーカーでデモ行進に連れて行かれたと語っている。彼女が乳母車でぐずると、母は自分の望むことばを言わせたという。「フィーダム(*3)」と。

*3 フリーダム=自由のこと。ここでは幼児言葉として表現されている。

スタンフォード大学経済学部で初の黒人教授

多くの学者がそうであるように、ドナルド・ハリスも若い時には渡り鳥だった。バークレーからイリノイ大学シャンペン・アバーナ校、ノース・ウェスタン大学、ウィスコンシン大学、そして最後に1972年湾岸地区に戻りスタンフォード大学へと渡り歩いた。「スタンフォード・デイリー」紙という学生新聞には、彼の経済思想はマルクス主義だと紹介されている。正しいかどうかは別にして、古典的というわけではなかった。そのために、彼が継続的に雇用されるかは全く不明な状態だった。

1974年、彼の客員教授としての身分が終わろうとしていたときに、スタンフォード大学の経済学の教授の中に、躊躇しながらも、彼を専任教授に推挙する者がいた。急進的政治経済学連合が彼のために裏で動いていたし、この問題は「スタンフォード・デイリー」紙にも取り上げられていた。学生は250人以上の署名を集めた嘆願書を提出し、経済学部はマルクス経済学にも「公式な立場」を与え、この分野の3人の教員の身分を保証し、さらにハリスには専任の、それも終身在職権を与えるよう要求していた。

ドナルド・ハリス自身が書いているところでは、スタンフォードに残ることに関しては「特に心配も、希望もしていなかった」という。しかし、究極的にはそこに職を得て、スタンフォード大学経済学部で終身身分を得た最初の黒人教授になった。そして、1998年に退職するまで、その地位に留まったのだ。その後、現在もなお名誉教授の肩書を保持している。