原作者とテレビ局がすれ違う場合
テレビが自由に原作を改変できない場合の選択肢は、以下の3つになる。
①映像化を中断、もしくはあきらめる
②こと細かく原作者と相談しながら、進める
③必要最小限のことだけを伝えながら、進める
①のときには、「それまでかかった費用をどうするか」「空いた枠を埋められるか」「主演を押さえていたら、どうするのか」などの問題が生じる。②の問題点は、「時間と手間がかかる」「原作者側の要望がどんどん増えて、制約が多くなる」「テレビ局側が作りたいものとは違うものになってしまう可能性がある」などがある。
今回の事件は、おそらく③のケースに当てはまると思われる。それは、この場合に生じる「両者間に齟齬が生じる恐れがある」「原作者がないがしろにされている感じを受ける可能性がある」などの問題点が芦原氏の主張と符合するからだ。
以上を踏まえたうえで、私が「原作モノ」を原作通りに映像化するのはいまの日本のテレビでは無理と断言する根拠を述べたい。最初の①に挙げた「プロデューサーの責任論……プロデューサーは何をしていたのか?」という視点から観ていきたい。
「原作モノ」をドラマ化する4つの壁
「原作モノ」のドラマを映像化するためには、以下の4つを完璧に遂行、もしくは修正・調整しなければならない。
①コンプライアンス対策
②タイトル
③ドラマ「3つの要素」
④企画成立の歪み
①の「コンプライアンス対策」だが、マンガや活字と映像は違う。映像にしたことで「刺激的になりすぎてしまう」場合には、その要素を排除しなければならない。逆に映像にしてみると「つまらなく、退屈」なこともあるだろう。そんなときには、味付けを濃くする作業が必要になる。
例えば、私が「破獄」というドラマを制作したときに、投獄されている囚人が長い間手かせ足かせをはめられていたためその箇所が膿んで「ウジ虫」が湧くという描写が原作(吉村昭氏の小説『破獄』)にあった。美術が用意したホンモノのウジ虫を使って撮影がおこなわれたが、これを放送していいかどうかという議論になった。
私は「このシーンは作品のテーマを表現する上で絶対に必要だ」と主張を通すことができたが、通常は、こういった社内の上層部からの声やプレッシャーに逆らうことは、なかなか局員というサラリーマンにとっては難しい。
「原作へのリスペクト」が問われるタイトル問題
②の「タイトル」に関しては、とにかく「わかりやすさ」を求められるという風潮がある。『ミッドナイト・ジャーナル』という新聞記者を主人公にした本城雅人氏の原作を映像化するときには、編成からかなり強く「これをパッと見た視聴者が何のドラマかわからない」と言われ、タイトルを変えるように指示された。
全部の番組がタイトルを見ただけで内容がわかるようだと逆につまらないだろうし、視聴者のリテラシーも低下させる一方だ。何より、タイトルを変えるなど正直言って「原作へのリスペクト」がなさすぎるし、原作者が納得するわけがないと思った。
だが、編成にあまり逆らうと次から企画が通らなくなったりするのが嫌だったので、私は仕方なく「ミッドナイト・ジャーナル」の後ろに「消えた誘拐犯を追え! 七年目の真実」というサブタイをつけて、原作者側と妥結した。