正しいとされる知識・学説はつねに書き換えられるもの
たとえば、個体差に応じた「個別化医療(PHC=Personalised Healthcare)」の研究が進んでいます。
これはある疾患に対して投薬治療を行う前に、コンパニオン診断薬を用いて、副作用が出やすい体質なのかそうでないのかを調べ、副作用が出にくい体質の患者に対して治療薬を投与するというものです。
あるいは、がん治療においては、疾患関連遺伝子の解析情報に基づき、より的確な効果を出しやすい分子標的薬の開発なども急速に進められています。
これを見てもわかるように、いわゆる知識と言われるものは、「とりあえずいまの時代のこの状況では、こう考えられていますよ」ということにすぎず、つねに新しいものに入れ替わっていく。
それは不変ではないし、未来永劫にわたって適応可能というわけではないのです。
ですから、いまわたしたちが生きる時代に正しい知識、正しい学説と思われているものも、数年後、数十年後には、「かつてはこんな信じられないような学説が幅を利かせていたんですよ」と面白おかしくテレビで取り上げられるのかもしれません。
医学の世界で言えば、現在、健康常識として信じられている説も、じつは20世紀型前提条件の影響下でつくられたものが、ほとんどと言っていい形でまかりとおっているのも事実です。
いまはまだ多くの支持者を集める説であっても、数年後にはまったくの間違いだったと判明することがないとは言いきれません。どんな高名な権威が提唱する説であっても、それがその分野の最終回答ではないということです。
例を挙げれば、コレステロールや血圧の正常値も……。
わたしたちに必要なのは、「知識や常識、理論・学説などは、あくまでも暫定的なもので、じつは時代とともにコロコロと変わっていく」ということを、しっかり認識してつき合っていくという姿勢です。
池上彰さんの番組で「ああ、そうだったのか」と納得する日本人
日本では大卒のような学歴のある人でも、ある説に触れたとき、なぜ簡単に「ああ、そうだったのか」と納得しておしまいにしてしまうのか、わたしはとても不思議に感じます。
たとえばお茶の間で人気を誇るジャーナリストの池上彰さんの番組を見て、番組のタイトルどおり「ああ、そうだったのか!?」と大いに納得して満足してしまう日本人は、非常に多いと思います。
しかし、わたしが1990年代前半に留学して以来、精神分析を学ぶためにずっと行き来をしているアメリカではそうではありません。
ある説を聞いたとき、「ああ、そうだったのか⁉️」的な納得の仕方をするのは、初等中等教育(小学校・中学校・高等学校に相当)レベルの人間とみなされ、知的な人物ではないと判断されます。
日本と違って、高等教育(大学・大学院に相当)以上のレベルの人たちは、「ほかの見方もあるのではないか」「その説が絶対とは限らない」「それはこういう理由で違うと思う」「別の条件下では成立しない」というように、自らの頭で思考するのが当たり前です。
そのうえで議論し意見を交え合うという場面に何度も遭遇し、日米の差に愕然としたものです。