ダーウィンとは正反対の人物だった

変異に対する鋭い観察眼ではひけを取らなかったアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、いくつかの点で自分より有名な同時代人ダーウィンとは正反対の人物だった。ダーウィンは裕福な一族に生まれ、エジンバラとケンブリッジ両方の大学で学問を修めたが、ウォレスのほうは14歳のときに父親が破産し、教育費をまかなえなくなったので学校を中退した。

アルフレッド・ラッセル・ウォレス(写真=Maull & Fox photographers, London. Upload, stitch and restoration by Jebulon/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ダーウィンは著名な奴隷廃止論者のジョサイア・ウエッジウッドとエラズマス・ダーウィンの孫であるにもかかわらず、なぜか生涯、政治的信念の表明には消極的だった。それに対してウォレスは、土地の国有化と女性の参政権を支持する記事を発表し、隠すことなく社会主義者を自称して、英国の自由貿易と軍国主義を批判した。

ウォレスはまた、13世紀のスコットランド独立運動の指導者ウィリアム・ウォレスの直系の子孫を名乗った。独立心旺盛で、研究活動の多くは独学で行い、その後彼が発見したことの一部は同じウィリアムという名の兄のもとで見習いをして学んだ測量の経験に基づいたものだった。

マレー諸島における先駆的研究で知られている

まだ20代の頃、ウォレスは1848年から52年にかけて探検したアマゾンの熱帯雨林で貴重な経験を積んだ。この地でリオネグロの詳細かつ正確な地図を作成し、訪ねた場所や人々について大量の記録を残し、数千種にのぼる動物の標本を収集したが、帰りの船が火事になって沈没してしまい、そのほとんどを失った。それでも、マレー諸島における彼の先駆的研究は、今日こんにちでもよく知られている。

1854年から62年まで、この地域を広く旅したウォレスは、12万5000種を超える標本を収集した。おもに昆虫と鳥だが、なかにはアカエリトリバネアゲハ(ラジャ・ブルックス・バードウィング)やマレーのリーフウィング蝶(マラヤンリーフウィングカリマパラレクタ)、セレベスハナドリ、ラケットカワセミ、モルッカツカツクリなどが含まれる。

彼が“新しい”種と予想していた飛ぶカエルの記述は、「爪先の変異性は……泳ぎと粘着登攀とうはんのために調整された」という記述のおかげでダーウィン説信奉者の関心を集めると同時に、特に西洋の科学界で注目を浴びた。

彼はマレー諸島の動物相を綿密に調査することで、私たちの生物学と地理学の理解を決定的に変えてしまうパターンを確立しようとした。