願わくばここに戻って来たい

小室好さん(久慈高校2年生)。

小室好(こむろ・このみ)さんも岩手県立久慈高等学校2年生。さて、小室さんは将来何屋になりたいですか。

「わたしは小学校教員になりたいです。両親がどちらとも小学校教員でして、小さいころから働いている姿を見ていましたし、わたし自身、小さいころから、自分より年下の子の面倒を見たりお話ししたりするのがとても好きで、自分にも合っていると思っていたので、小学校教員になりたいなと」

岩手県の小学校の先生ということですか。

「はい、なるべく岩手にいて、地元の子どもたちと接したいなと思います」

大学はどこに行きたいですか。

「岩手大学に行って、教員免許を取れたらと。岩手じゃなかったら、青森の弘前大学に行こうと思っています」

進学先や就職先として、首都圏は考えの中にはありませんか。

「なんていうんでしょう、わたしアナログ人で、都会に行くと何が何だかっていう人間なんで(笑)、なるべくこう、東北で収まりたいなと。叔父が東京のほうで大学の准教授をやっていまして、遊びに行ったりもするんですけど、どうしても慣れなくて」

小室さんは仕事をするときに、どこに住んでいたいですか。岩手県内ということになるのでしょうが、学校の先生ですと、異動・転勤がありますよね。

「はい。ある程度転々としたあとに、久慈に戻って来たいと思ってます。わたしはここで生まれて、陸前高田に行って、高田のあとに釜石に行って、ここに戻って来たんです。異動の希望もある程度聞いてもらえるところもあるみたいで、うちの父と母は沿岸を希望して。だいたいひとつの学校にいるのが4年から5年なんです。母が定年するまでにちょうど足りるかもと考えて、久慈に家を建てて住んでいるんです。わたしもそういうふうに、転々としたあとで、願わくばここに戻って来たいと思いますけど、自分の居たいと思う土地を、岩手の中で見つけられるのがいちばんいいかなと思っています」

結婚したとき、旦那さんの職業によって住むところが変わる可能性がありますか。

「どうだろう、わたし、ついて行くのかな(笑)……。わたし自身公務員になりたいので、たぶん(結婚相手として)見える範囲は公務員なのかなと思うんですよ。学校の先生は学校の先生と結婚する人、多いですし、学校の先生っていうと土曜日も仕事があったりだとか、夜遅く呑み会があったりとかしますので、そういうことを理解してくれるという面で見ても、同じ職業を選ぶ方が多いので、わたしもきっと公務員の方なのかなと、勝手に(笑)」

小室さん自身は、結婚して子どもが産まれても、ずっと仕事はしたいと考えていますか。

「はい、したいです」

桜庭さんも関口さんも、久慈を、東北を出るという話をしてくれました。それを踏まえて、ちょっと意地悪な訊き方をします。小室さんは、自分の発想を久慈や岩手という範囲の中で狭めている——と自分で考えることはありませんか。

「わたしは、ひきこもりの質(たち)だから(笑)、『どこか遠くに行きたい』って思うことは、そんなにないかな。今、好きな本に、京都を舞台にしたものがあって『ああ、京都すてき』とは思うんですけど、『修学旅行で1回行ったらいいかな』ぐらいの感覚なんですよ。やっぱりこの地域にいて、子どもたちと触れ合ったり、自分の好きなことができたらいちばんいいかな、と」

聞きながら桜庭さんが頷き、真顔でこう言った。

「大人だなあ、小室」

小室さんが笑顔で首を振る。

小室「わたしは学校の先生になりたいと思ってはいるんですけれど、それしか見ていない気がするんですよ。祖母も祖父も公務員ですし、叔父も学校の先生なので、そういうとこしか見えてないのかなと思って。実紀ちゃんが、アメリカでいろんな仕事をしている人の話を聞いてきた経験は、いいなあと思いましたね」

桜庭「うん、すごい楽しかった。広いところに集まってお話聞くのも楽しかったし、仕事をしている人ごとに、それぞれの個室を訪ねてお話を聞くのもすごく楽しかった。あと、ホームステイ先のお母さんが病院で検査技師をやってる人だったので、病院に連れていってもらって、中を見せてもらったりして」

関口「うわあ、超有意義だ」

桜庭「そう、超有意義(笑)。観光とかじゃなかったのに、すごい有意義だった」

桜庭さん、合州国に行って「TOMODACHIサマー2012 ソフトバンク・リーダーシップ・プログラム」でいろんなことを体験して帰ってきて、クラスで浮いたりしませんでしたか。

桜庭「いえ、ぜんぜん(笑)」

関口「むしろみんな『おかえり〜、よく帰って来たね』みたいなかんじだよね」

小室「久慈高校では、『TOMODACHI〜』みたいに海外に行くやつとか、こういうボランティアがあるとか、いっぱい掲示板に貼り出してあって、 行く前からのみんなの理解があるっていうか」

彼女たちが語る久慈高校の雰囲気は、伝統と言っていいだろう。『岩手県立久慈高等学校30年史』(1973[昭和48]年刊)に、久慈高最初の外国留学生——今回取材で会った3人にとっては40期前の先輩の話が載っている。

《昭和47年度7月19日 普通科3年の晴山健二君は、国内選考の難関をみごとにパスし、AFS留学生として、この日渡米した。1年間の留学期間中は、イリノイ州の一般家庭に寄宿し、イリノイ州イーストオリンピア高校3年に留学し、貴重な体験を得るとともに、日米親善の大任を果たした。(中略)創立以来初の外国留学という快挙は、とかく閉鎖的になりがちな本校生徒に、絶好の精神的な刺激となった》(同書p.94-95)

AFSとは、第一次大戦時の傷病兵救護輸送活動(American Field Service:アメリカ野戦奉仕団)に源流を持つ、1947(昭和22)年から現在まで続く最古の国際高校生交換留学制度。東日本大震災に際しても複数の奨学金制度を展開している。この制度によって久慈高校初の留学生となった当人の手記も『30年史』に掲載されている。

《今僕は、1年間の留学がおわってみて、何を得たかと考えてみると、物理的には体重を得たとかプレゼントをもらったとか、いろいろありますがもちろん僕にとって大事なのは、世界各国に友だちができたこと、第2の家族を持てたことです。(中略)高校生の時の留学は、違った生活や文化を知るという上で大事です。将来、チャンスがあったら1人で勉強をしに、またどこかに行きたいという希望を、僕は心のなかにしまっています》(「アメリカ留学を終えて」3年B組 晴山健二、同書p.122)。

「体重を得たとか」という"軽口"も伝統として受け継がれているのやもしれない。晴山氏は、今年の全国高等学校総合文化祭の出場権を獲得した久慈高校伝統のマンドリン部10代目部長でもある。

このあとこちらは「仕事をしている大人から、どんなことを聞いてみたいですか」と3人に訊いた。このとき「わたしは、ひきこもりの質だから(笑)」と言った小室さんの答えが、教職という仕事の広がりと奥行きを、こちらに気づかせることになる。

(明日に続く)

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