応急処置の絵とか、すごい好きなんです

石川理那さん(多賀城高校2年生)。

石川理那(いしかわ・りな)さんは、宮城県多賀城高等学校普通科2年生。自宅は「半壊でした。若干傾いたので、引っ越しました」。震災後、しばらくの間、親御さんから外出禁止を命じられたという。

「震災直後は水や食糧の配給が近くの公園でありましたので、それをもらいに行っていました。でも、ラジオで福島原発の問題が明らかになっていくと『今は危険かもしれないから』と言われて。1カ月間は電気、水が使えない状況で、陽が上ったら起きる、日が沈んだら寝るという、現代ではしない生活を送っていました。電気がないので星がすごく綺麗でした。震災の被害を実感したのは震災から2、3カ月程経って、親戚がいる南三陸町を訪れたときでした。幼いころから訪れていて大好きだった街は瓦礫の山しかなくて、親戚の家やよく行っていたお店はどこにも見当たりませんでした」

先回りして言えば、石川さんの将来の志望は医療関係だ。だが、そのきっかけ(の半分)は震災よりもずっと前に遡る。

「将来は国際看護師か薬剤師——医療系に就きたいと思ってます。青年海外協力隊にも参加したいと考えてます」

前出の太田さんも話していた青年海外協力隊は、独立行政法人国際協力機構(JICA)が日本政府のODA予算で実施する「JICAボランティア事業」のひとつだ。隊の発足は1965(昭和40)年。現在までのべ3万6000人が参加している。隊への応募資格は、満20歳(2013年4月1日時点)から満39歳(2012年11月5日時点)の日本国籍を持つ者。隊で募集される職種は、石川さんが志望する「保健・医療(看護師、助産師、保健師、作業療法士、栄養士など)」のほかに、計画行政、公共・公益事業(土木、都市計画、建築)、農林水産、鉱工業、社会福祉(障碍児・障碍者支援)、そして、太田さんが志望する「青少年活動」を含む「人的資源(教育、スポーツなど)」がある。

派遣期間は原則2年間。給料や報酬は出ないが、往復渡航費と現地住居費、月280~760米ドル(約2万4000~6万6000円)の生活費が支給され、派遣前訓練中や派遣中に日本国内で支出が必要な経費として国内手当も支給される。手当の額は訓練期間中は月4万円、派遣期間中は月5万5000円だ。

さて、石川さん。志望は、医療、かつ、国際というところがポイントなんですね。

「はい。幼稚園のころから、すごい分厚い『家庭の医学』みたいな本を、字なんかあんまり読めないのに、面白くてずっと読んでてて(笑)。応急処置の絵とか、すごい好きなんです。捻挫したときはこう対処するとか。包帯の巻き方とか、そういうのが(笑)」

では「国際」のほうのきっかけは。

「震災で世界からの支援を強く意識したことと、『TOMODACHI~』でアメリカに行ったことです。医療と国際のどちらもできる国際看護というものがあると知って、興味を持ちました」

気仙沼編(連載第33回《http://president.jp/articles/-/8194》)でも触れたが、高校生たちは「TOMODACHI~」プログラムのなかで、合州国で働く日本人看護師に会って話を聞いている。

「医療にはずっと興味があったんですけど、その途中でいろんな夢ができて。でも、高校に入って、真剣に将来のこと考えなきゃいけないってなったときに、やっぱり医療に携わりたいなと思って、いろんなこと調べて。どうして看護師とか薬剤師になりたいかというと、体だけじゃなくて、こころも元気にできる仕事だと聞いたからです。震災があって、心のケアの大切さというものをあらためて思うことがあって。震災では、怪我や病気に加えて、多くの人がこころに傷を負っています。震災後に鬱になる人も多くいました。そのようすを聞いて、医療の面で人のこころを癒せるようになりたいと思ったんです」

ということは、進学先は医療係の学校になると思うのですが、専門学校も短大もありますし、看護専門の大学、一般の大学の医学部、薬科大もあります。石川さんが考えている行き先はどこですか。

(明日に続く)

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