ニュースの「本当の価値」に比例しない
ページ閲覧数は不正な数値操作を受けやすいし、読者の浅薄な関わり方に親和性がある。見出しに「これら人気子役の現在の外見を、あなたは信じられないでしょう」とうたった箇条書き形式の記事、ユーザーはそれを何回かクリックして苛立ちと自己嫌悪の中で画面を閉じてしまう――そんな閲覧数も、3章にわたり構成された記事でユーザーがSNSでシェアしたり友人にメールで送ったり、後にこのメディアを購読しようという判断に結びついたりするものと価値は同じ、あるいはページ数によってはもっと価値が高いと計測される。
ページ閲覧数はウェブの初期、広告を売る際の何らかの指標にということで設計されたものだ。ジャーナリズムの経済モデルにおいて広告の占める位置が低くなる中、意味も乏しくなってきた。
数値自体に問題が多いこと、ボットによって簡単に数値を操作できることを除いても、ページ閲覧数はページに一時であろうと目をやったことがあるかもしれない人(や機械)の数を推定するものだ。そのページを読者が心の中でどう評価するかとは何ら関係ない。
報道人たちが分析データを恐れる理由
この後、私たちはウェブ上で人々がニュースと情報にどう関わるか計測する、より良い方法について述べる。その前に、優れたデータであってもそれを解釈するとなると、報道部門内部には文化の壁が分厚く存在することは指摘しておく価値があろう。
報道人の多くは分析を恐れる。社会で今何が問題なのかという、自分たちが行うべき報道判断が、取って代わられるのではないかと心配するのだ。道徳や市民の在り方を巡って人間が行う判断を、機械が代わって行うという古典的な例だ。
最高のジャーナリストの中には、ページ閲覧数やユニーク訪問数にまつわる誤りを感じ取り、それに基づく方針に抵抗してきた人もいるが、それよりましな何かの開発に取り組んだということはまずない。多くの報道人は、ひどい幹部が分析数値を自分たちに対する「攻撃材料」として使うのを恐れた。収入減に直面したメディアは人員を削減し、中には閲覧数を重視し、担当分野のクリック数が不十分なら解雇するというところもあったのだ。
テレビは長年リアルタイムのデータを用いているが、その経験に基づくなら、報道業界がそうしたデータの意味を読み取るため苦心することになるだろうとの懸念にも理由はあった。