幼少時に宮城県に家族と転居してきたさとうさんは、音楽の道を志し、東北学院大(仙台市)在学中から歌声喫茶でアルバイトをしていた。
卒業後は東京で一般企業に就職したものの、音楽を諦めきれず一年あまりで帰郷、再び歌声喫茶で働くなどしながら音楽活動を続け、同郷の女性と結婚して娘ももうけたが、なかなか人気が出ず、知人の借金の保証人になるなどして苦労した。
3~4分で曲が完成した
1977(昭和52)年にディスクジョッキーをしていたNHK仙台放送局のラジオ番組で、リスナーから寄せられた詞にさとうさんが曲をつける企画があった。
「青葉城恋唄」と題した詞を送った星間船一さんは当時、仙台で活躍していたセミプロの作詞家で、仙台の情景とともに失恋のほろ苦さを綴った詞はさとうさんの琴線に触れた。「一気にイメージが膨らんで、作曲は放送予定の前日、ギターで三~四分で完成しました。あっという間にできる曲は皆さんに愛されるものだ、とあとで実感することになりました」と話す。
番組では、仙台市出身で東北大で機械工学を学ぶ榊原光裕さんがアシスタントを務めていた。独学でピアノを学び、仙台で活躍していたバンド「コンビネーションサラダ」のキーボード奏者でもあった。やはり仙台市出身のミュージシャンの稲垣潤一さんが、デビュー前にドラムを担当していた“伝説のバンド”でもある。
榊原さんは「青葉城恋唄」に即興でアレンジしたピアノを合わせ、番組で生演奏したところリクエストが殺到、さとうさんのメジャーデビューが決まる。レコーディングには榊原さんも参加、「シンプルなメロディで故郷を歌う点が共感を得たのではないでしょうか」と話す。
国鉄本社にかけあい、上野行きの特急「ひばり」発車メロディに
「青葉城恋唄」は1978(昭和53)年5月にシングル盤が発売された。当時の仙台駅の米山駅長は、上野~仙台間を当時、走っていた特急「ひばり」が仙台駅から発車する際のメロディとしてホームで、到着後には駅構内全体で、「青葉城恋唄」のレコードを音源とするテープをかけ続けた。
「『地元の歌を応援したい』と当時の国鉄本社にかけあったそうです」と、息子で父と同じように旧国鉄に入り、仙台駅の助役を務めたこともある元JR石巻駅長の俊秀さんは言う。
また、駅構内のBGMとしてもひたすらかけ続けた。シングル盤の最初のレコードプレスは二~三千枚程度だったが、多くの乗降客が耳にした効果もあったのか、最初の一週間で、仙台だけで三万枚を売り切った。