その後、NHKの朝の全国テレビニュースが「仙台で生まれた曲が驚くほどの盛り上がりを見せている」として紹介、さとうさんが旧青葉城の城跡でギターを弾きながら「青葉城恋唄」を歌う様子を生中継した。これを機に評判は爆発的に全国へと広がる。

「全国のレコード店から、シングル盤の追加注文が万単位で殺到して。もう何が何だか分からなくなっていきましたね」とさとうさん。同年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たした。米山駅長は紅白歌合戦が放送された大みそかの12月31日夜、仙台駅で夜通し、「青葉城恋唄」をかけ続けて応援したという。

駅長のアイデアが仙台発の大ヒット曲を生んだ

息子の俊秀さんによると、実は米山駅長はこの年のNHK紅白歌合戦に、審査員として出演のオファーがあったという。仙台発の「青葉城恋唄」のヒットが、それだけ社会現象となっていたからなのだろう。だが米山駅長は「大みそかという大事な日に駅を不在にすることはできない」と出演を断った。

そんな経緯もあり、「当日はさとうさんの紅白出場を、駅構内放送で曲を流し続けて応援したのでしょう」。俊秀さんは現在、仙台駅に隣接するJR系のホテルで働いており、父の遺志を継いで今も仙台駅を見守り続けている。

「青葉城恋唄」がヒットした当時の歌謡界は、1960年代から1970年代にかけて一世を風靡したフォークソングの影が薄くなる一方、ピンク・レディーやキャンディーズなど女性アイドルが台頭し、カタカナの和製英語が飛び交うヒット曲が多くなった。その中でレコード会社は、新人としては遅咲きのさとうさんの特徴を出すため「杜の都の吟遊詩人」のキャッチフレーズで売り出した。

「当時の僕は29歳で、『青葉城恋唄』の“瀬音”とか“ゆかしき”なんていう歌詞が、当時の大人に受け入れられたように思います。東北大出身の、当時で50~60歳くらいの方々が『聴くと仙台を思い出す』とノスタルジーを感じてくださったようです」。

加えて「地方の時代」という世相も反映しているようだ。この当時、政府による東京への中央集権に疑問を呈する意見が、地方自治体の首長らを中心に活発に議論されていた。仙台は東北の一大都市であり、旧七帝大の一つである東北大学があって、“学都”とも呼ばれていた。「都会には負けない」という気概もあったろう。

広瀬川から見る仙台市の風景
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ふるさとを旅立つ瞬間に流れる駅メロの効果

しかし、もうひとつ。当時の鉄道の状況と駅という舞台の力は見逃せないのではないだろうか。大ヒット当時、東北新幹線はまだできておらず、在来の東北本線がメインルートで、上野~仙台間は特急「ひばり」がほぼ一時間ごとに運転されていた。