不登校を「待つ」おっパン、「発達障害」と語るふてほど
例えば、同じ「不登校」というテーマを扱う場面でも、「おっパン」と「ふてほど」ではかなりトーンが違う。「おっパン」もハートフルコメディであることは忘れず、深刻すぎてはいないのだが、家族の焦りやためらいが丁寧に描かれ、それがセリフにも表れている。
ひきこもる息子に登校を急かそうとする父に対し、姉の萌は「世間が待ってくれないから、家族は待ってるフリをするんじゃないの?」と話す。子どもを「世間」に合わせようとして、立ち上がる力を奪うのではなく、タイミングがくるまで待とう、というアップデートされた価値観が提示される。
一方の「ふてほど」では、令和の社会学者というサカエ(吉田羊)が、不登校について「ASD、ADHD、SLDなどが原因」とまくし立てる。しかし不登校の原因はなにも発達障害だけではない。続けて「学校の授業や集団生活についていけない子ども」と語るのだが、この表現も正確だろうか。その子にとっては集団で学ぶことがベストではない、というケースもある。
何より社会学者がそのような認識の甘い発言をするだろうか、とツッコミたくなるのだが、「ふてほど」での吉田羊は、理性(=学んで身につけたフェミニズム)と感情や本音が相反して「女としての自分」に気づかされる、という道化的な役回りなのである。
「ふてほど」ではギャグとして、毎回「この主人公は1986年から時空を超えて来たため現在では不適切な発言を繰り返します」とテロップが入る。しかしそれがない場面でも「えっ、これって不適切ギャグ? 単に間違いでは?」と思わされる言葉の誤用やミスリーディングが多いのだ。茶化しているのか、単なるミスなのかがわからないから、たちが悪い。
「ふてほど」は、あえてミスリーディングを誘ったのか
パワハラやフェミニズムの理解も、セクハラやルッキズムの語義も、すべて「本来の意味とはズレたもの」を提示してから、それを批判して取り下げさせる。しかし、ドラマ内で示される「そもそもの言葉の定義」が間違っているのだから、知っている人は「どういうこと?」とモヤモヤするし、知らない人にとっては新たに「誤解」や「間違った概念」が植えつけられてしまう。
例えばLGBTQ、また性加害、それから新しい職業であるインティマシーコーディネーター(映画やドラマでの性的表現を伴う撮影現場で、俳優の尊厳を守る役割)など、それに関する正しい知識の普及に苦心してきた人にとっては、多くの人が見るドラマで間違った解釈がわざわざ放送されて、やるせない思いになる場面もあったのではないか。