そもそも人間は愚痴っぽい

僕の学生時代? 愚痴っぽくて暗い時代だった。僕は大学に7年もいたけど、明るければもっと早く卒業できた。何をやってもダメで、わが青春はほとんど闇……。ひとつには、若い時は、明るく振る舞うことはレベルの低い人間とされるわけ。世の中を批判的に言ったほうが、一家言ある奴だと認められたりするでしょう。若い時ってそういう錯覚に陥る。僕もそうだった。バカだね。

じつは、人間というのは、みんな暗いんです。じめじめしているんですよ。俺、ダメだなって、みんな思うでしょう。みんな愚痴っぽくってね、これは、会社の上司も同じで、基本的にみんな暗いんです。だからこそ、人の暗さなんて見たくない。社長も、部長も。

だって自分の暗さを知っているのに、それがイヤでイヤでたまらないのに、目の前で若い者がグチグチと言ってたら、「あっちへ行けッ!」って怒鳴りたくなる。つまり、愚痴って、ある意味で怠惰であり、甘えでしょう。そこにいかないようにみんな頑張っているわけ。虚勢を張りながらギリギリまで頑張っていくんでしょ。それが明るさなんだから。

もっといえば、明るい面をアピールすることで、暗い面が影になって発想が立体的になる。もともと暗い人間が暗さをアピールしても、平板で奥行きも感じられない。それどころか単なる穴ボコだ。あるいは、明るさだけの人間も、これは本当のバカ、としか見られない。

話を遮るのは“スタンドプレー”が過ぎるとき

バブルの時代というのは、酔っ払って暗さを忘れた時代だった。不況という暗さを、すっかり忘れてしまったでしょう。ただ銀行から金を借りて土地を買い、それを転がしていっただけで金持ちになった。それだけのことですごく能力があるんじゃないかと思ったわけでしょう。

暗い影と明るい光の面とをもった立体的な発想が必要なんです。暗さがなければ薄っぺらな紙切れに等しいわけだから。まず自分の暗さを認識した上で、明るさをいかにアピールするかが大事なことなんです。

話は飛ぶけど、僕が『朝まで生テレビ』などで、パネリストたちの意見をさえぎる、途中で強引に止めさせてしまうのはけしからん、とよく怒られるけど、これは誤解なんです。僕が「それは止めて欲しい」「違いますよ」というのは、相手の、いわゆるスタンドプレーが過ぎるとき。パネリストが自分の言いたいこと、主張を表現するためにいろんな手段を動員する、パフォーマンスをする。これはいい。だけど、スタンドプレーだけでは困る。この違いが実は大事なんです。

たとえば、清原や長嶋などの野球選手が、懸命にプレーする。これはいわばグランドプレーです。グランドプレーがあって、その上で客のサービスのためのパフォーマンスをするのは必要だろう。しかしグランドプレーなしのスタンドプレーは困る。討論会でも同じで、僕が話をさえぎるのは「グランドプレーなしのスタンドプレー」が出たときなんです。

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