家治の時代=田沼の時代

しかし、将軍には平均して7~8人の側室がいたというのに、側室をあまり持たなかったため、世継ぎ問題に影響することになった。2男2女はみな早世してしまい、なかでも前述のとおり、世嗣であった家基が死去したのは大きかった。

このため、祖父吉宗の孫で御三卿の一橋徳川家当主、徳川治済の長男、家斉を養子に迎えることになった。これにも田沼の助言があったようだ。

家治の後継候補には、当初は松平定信もいた。御三卿の田安徳川家の初代、徳川宗武の七男として生まれた定信は、幼いころから聡明で、田安家の後継者になり、ひいては家治の次の将軍か、と思われていた。

ところが、白河藩に養子に出してしまう。この背景にも田沼の助言があったようで、家治の背後に田沼の影があちこちに見える点は、ドラマと矛盾していない。

天明6年(1786)に家治が数え50歳で死去し、その翌年にわずか15歳で将軍になった家斉は、田沼を排除し、かつての将軍候補の定信を老中首座に据えた。

しかし、家治の時代を田沼で語れたようには、家斉の時代を定信で語ることはできない。なぜなら、家斉は歴代のなかで将軍在位最長を誇り、50年にもわたる長期政権を築いたからである。

徳川家斉像(画像=徳川記念財団所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

子づくりのしすぎで国が滅ぶ

家斉自身、定信時代の倹約生活にうんざりしていたようで、定信の失脚の後は一転、贅沢を優先するようになった。

そのことと無縁ではないと思うが、17歳から55歳までほぼ毎年、子供が生まれている。側室や側妾の数はわかっているだけで40人程度にはなり、子供の名前は26男、27女が確認できる。加えて、流産した子が少なくとも7人はいたという。

島津重豪の娘で、近衛経熙の養女になって嫁いだ正室の寔子とのあいだにも、五男の敦之助が産まれ(数え3歳で没)、次に男子を流産しているから、多くの将軍のように正室をないがしろにしていたわけではない。

しかし、大奥に入り浸って片っ端から女性に手を出していた以上、家治のような「愛妻家」とは呼べないだろう。なにしろ、正室の近衛寔子との婚儀の翌月にも、お万の方と呼ばれた側妾から長女の淑姫が生まれている。このとき家斉はまだ17歳。以後、40年近くにわたって毎年、こういうことが繰り返されたのである。

ただ、53人もの子供のうち25人は成人できなかったが、それでも絶対数が多いから、多くの子が各徳川家や諸大名のもとへ養子に出され、女子は嫁いだ。それによって、幕府と諸大名の関係が深まった面はある。それに、なにより次男の家慶に将軍職を譲ることができた点は、「愛妻家」の家治には叶わなかったことだ。

しかし、将軍の子女を迎えるとなると、幕府と受け入れ先の双方に莫大ばくだいな費用がかかる。それが毎年続いた結果、幕府も諸藩も財政が逼迫ひっぱくしてしまった。子がいないと国が滅ぶが、度が過ぎる子づくりもまた、国を滅ぼすのである。

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