建築士「設計上の問題はありません」
正力の依頼を引き受けたフラーは、1966(昭和41)年八月に富士山に登っている。これは4000メートル級タワーの設計を念頭に置いた「現地視察」だった。
当時フラーは71歳。日本最高峰に登頂するには体力が懸念されたが、同行した正力の側近、柴田秀利とともに山頂まで登りきった。正確に言えば、自らの足で登ったわけではない。ブルドーザーが2人を頂上まで連れて行った。
富士山では、物資を頂上へ運ぶ方法としてブルドーザーが用いられている。前面に取り付けられた大きなシャベルの中に分厚い毛布を敷いたソファを置き、2人はそこに座ったまま富士を登った。音はうるさかったが、煙草をくゆらせながらののんびりした登山だったと柴田は振り返る。
富士登山を終えて東京に戻ったフラーに正力が尋ねた。「どうです、四千メートルの塔ができますか」。フラーは、「設計上の問題はありません。ただし耐震対策、風圧計算等、或る程度の実験をする必要はありますよ」と実現に自信を見せた。
タワーの近くに3000メートルのピラミッド
富士登山を終えるとフラーとサダオは4000メートルタワーの研究を本格化させた。その年の12月に1万語に及ぶ報告書を完成させる。
「富士山ほどの高さであっても、その当時使われている技術で対処できないものは何もないことが判明した」と4000メートルタワーが技術的に可能であると結論付けた。
では4000メートルタワーの具体的な中身を見てみよう。タワーは3本脚の鉄塔で、テンセグリティ・マストによって構成されたものだった。テンセグリティ(tensegrity)とは、tension(張力)とintegrity(総合)をつなげたフラーの造語である。
柱同士をつなげることなく、張力を用いて一体化する構造で、少ない材料で強い建物がつくれるという特徴を持つ。
中央に4000メートルの塔が据えられ、その塔は6本の支持ケーブルでつながれた3つの四面体(三角錐)で支えられている。この四面体は中央の塔と比べて低く見えるが、その高さはエッフェル塔と同程度の300メートル超に及び、集合住宅として使われることが想定された。
中央の塔の約600メートル以下の部分にはオフィスが入るほか、商業施設やスタジアムの整備も想定されていた。中央の塔の主な目的は電波塔だが、展望塔としての機能も有し、頂上には日本列島を一望できる展望台が設計された。