史実と異なる「お涙ちょうだい」

ドラマでは家康が大筒で本丸の砲撃を命じると、城内にいる千の身を案じる秀忠は、泣きながら家康に「やめてくだされ、父上!」と懇願。ついには「やめろーっ! こんなのは戦ではない! 父上‼」と叫び、嗚咽しながら家康にすがりついた。家康は「これが戦じゃ。この世でもっとも愚かで醜い……、人の所業じゃ」と答えたが、いかがなものか。

後述するが、千姫の身を案じていたのは、むしろ家康であって、秀忠は意外にも冷酷だったと伝えられる。史実を無視して父娘愛を強調し、お涙をちょうだいするドラマづくりには違和感を覚える。

千姫の錦絵(写真=『魁題百撰相 秀頼公北之方』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

また家康の言葉にも、太平洋戦争の惨禍を経験した戦後の日本で醸成された、戦争とは問答無用で否定されるべき「愚かな所業」であるという感情論が反映されている。戦争が「愚かな所業」だという価値観を今日もつのはいいが、当時の人がもっていたように描けば、歴史の歪曲につながってしまう。

2歳で婚約が取り決められた

さて、秀忠と6歳年長の妻、浅井江(茶々の妹)とのあいだに長女の千が、伏見において生を受けたのは慶長2年(1597)5月10日のことだった。豊臣秀吉は翌年8月17日に死去する前に遺言で、まだ数え6歳の秀頼と数え2歳の千との婚約を取り決めている。秀吉は臨終間際に「秀頼のこと頼みまいらせ候」と哀願し、その一環であるこの婚約を、家康は受け入れた。千の運命は生後わずか1年にして、すでに決められたのである。

そして秀吉の遺言にしたがい、慶長8年(1603)7月、11歳の秀頼と7歳の千の婚礼が執り行われた。家康はこの年の2月、征夷大将軍に任ぜられていたが、この時点では徳川と豊臣の併存を考えていたのだ(それしか方途がなかった)。この婚礼の際、秀忠は江戸に残ったままだったが、母の江は身重なのを押して千に同行し、5月半ばには伏見に着いて家康と対面している(江は7月に伏見で初を生んでいる)。

ところで、江は嫉妬心が強く、秀忠の子女は長男で早世した長丸を除き、二男五女が江とのあいだに生まれた、と一般に考えられてきた。しかし、福田千鶴氏は「江から出生したのは千・初・国松の二女一男のみであり、子々・勝・和・長丸・家光は庶出子と考えられるので、秀忠には長丸の生母以外にも侍妾が置かれていたとみなされる」と述べる(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。

いずれにせよ、千は秀忠と江の子であることがまちがいなく、長女であり、二人のあいだのはじめての子女だった。それだけに二人が愛情を注いだことは想像に難くない。