大坂夏の陣の時も大坂城内にいた千姫はどうしたか

徳川家と豊臣家が対立せず、戦に発展しなければ、千姫は、政略結婚の犠牲になったとはいえ、幸せな生涯を送れたと思います。しかし、方広寺鐘銘事件や大坂城の浪人問題などが重なり、ついに、両者(徳川と豊臣)は戦端を開きます。慶長19年(1614)、大坂冬の陣です。いったん、和議が結ばれますが、翌年には再び戦(大坂夏の陣)が勃発。豊臣方は追い詰められて、豊臣秀頼と淀殿にも最期のときが迫っていました。

『徳川実紀』によると、千姫は「秀頼母子助命」を徳川方に請うため、大坂城を出たとあります。その途上に千姫一行が出会ったのが、徳川方の坂崎出羽守直盛(成政)でした。直盛は、石見国津和野藩主です。直盛は、千姫を無事に、家康の本陣がある茶臼山に送り届けました。豊臣家の家臣・大野治長も家来を派遣して、秀頼の助命を請いますが、家康は「将軍家(秀忠)の意向に任そう」と返答したとのこと。

撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の大阪城天守閣

「秀頼と淀君の助命嘆願はいったん聞き入れられた」という説も

一説によると、方々からの助命嘆願は聞き入れられ「秀頼母子出城」が一時は定まったとされます。徳川方の近藤秀用と豊臣方の速水守之が出城の件について交渉。速水は「御母子の乗り物(輿のこと)を頂きたい」と提案しますが、近藤は「急遽のことで、乗り物など用意できるはずはない。馬にて出城されよ」と一蹴いっしゅう

すると速水は「御運の末となったといえども、右大臣殿母子(秀頼と淀殿)を馬にて、出城させるわけにはいかぬ」と憤然として、交渉を打ち切ってしまうのでした。そして、秀頼や淀殿らは自害してしまうのです。夫の助命を願っていた千姫としては、こうした結末になってしまったのは、断腸の思いだったでしょう。

秀頼と正室である千姫との間には子はありませんでした。が、秀頼には側室がおり、側室との間には子がいたのです。それが、国松(男子)と天秀尼てんしゅうに(女子)です。国松は男子ということもあり、大坂城落城後程なくして捕えられ、六条河原で処刑されてしまいます。8歳でした。一方、天秀尼は、千姫の養女となり、仏門に入ることによって、助命されました。

夫を亡くし、傷心の千姫に転機が訪れたのが、元和2年(1616)9月のこと。この年、千姫は本多忠刻(徳川家臣・本多忠政の長男)に再嫁することになるのです。ちなみに忠政の妻は、松平信康(家康とその正室・築山殿の子)の娘でした。