千姫を救出した老武将は、姫の再婚を妨害しようとした

忠刻のもとに嫁ぐ千姫。その千姫が乗る輿を狙う1人の武将がいました。坂崎直盛です。そう、千姫が大坂城から脱出した際、家康の本陣まで彼女を送り届けた武将です。一説によると、直盛はその功績を誇り、千姫を自らの妻にしたいと懇願したとのこと。だが、千姫は20代で、直盛は50過ぎの老年。また、譜代大名でもない直盛ごときに千姫を嫁がせるのはいかがなものかという見解もあり、結局は本多忠刻に嫁ぐことになるのです。

直盛は、そのことを深く恨み、千姫の輿入れのとき、彼女が乗る輿を奪い、刺し違えて死ぬ覚悟であったといいます。剣術家の柳生宗矩やぎゅう・むねのりらが直盛をなだめようとしたとのことですが、直盛は引きこもって面会せず。そんな直盛の「狂気」は既に徳川幕府に露見していましたので、幕府は直盛の家人に次のような命令を下したといいます。「お前たちの主人の挙動は狂気である。直盛が自殺して果てたならば、一族の者に家督を継がせよう」と。この命令を聞いた直盛の家臣は、主人である直盛を自殺させて、その首を進上したと言われます。

また、一説によると、直盛を泥酔させて寝ているところを、家臣らが薙刀なぎなたで襲い、首を取ったとされます。いずれにしても、直盛は千姫を奪うことかなわず、死んだのです。坂崎家の所領は没収され、同家は断絶します。

徳川四天王・本多忠勝の孫と再婚し2児に恵まれる

さて、千姫は無事に本多忠刻のもとに嫁ぎます。そして、長女の勝姫、長男の幸千代を産むことになるのです。しかし、元和7年(1621)、幸千代は3歳で亡くなってしまいます。寛永3年(1626)には、夫の忠刻も31歳で病死します。千姫は忠刻と共に姫路城に居住していましたが、夫の死により、娘と共に江戸城に戻ることになります。そして、出家し、天樹院と号するのです。

「本多忠刻の肖像」
「本多忠刻の肖像」(写真=橋本政次著『新訂姫路城史 中巻』臨川書店/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

寛文6年(1666)、最期まで秀忠の長女として徳川将軍家や大奥にも発言権を持っていた千姫は70歳で病死。波瀾万丈の生涯を閉じます。既に4代将軍・徳川家綱(3代・家光の子、千姫にとっては甥)の治世となっていました。一方、無事に成人した娘、勝姫は姫路藩主・池田光政の正室となり、その子孫は最後の将軍、徳川慶喜まで千姫の血をつなげていくのです。