法に背くことの必要性

道徳的な行為の偉大さは、自由の内在にあるとカントは指摘している。善をなそうという意志が自らのもの、つまり、純粋に自分の意志のみに従って善行をなそうとしたときが、本当の道徳的行為だというわけだ。

要するに、たとえわずかでも、法の遵守を強制する権力(例えば路上に警官がいるなど)や、違反者を罰する権力(例えば司法)が介在する限り、法は道徳ではない。外側から誘導されて、法を遵守しているだけだからだ。

さらに言えば、人間の歴史のなかでは、フランスのレジスタンス運動〔訳注:第二次世界大戦中、ドイツ占領下における抵抗活動〕や、カミュが「反抗的人間」と呼んだ人たちのように、道徳的であろうとしたからこそ、法に背かざるをえなかったという事例も少なからず見受けられる。

シャルル・ペパン『フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書』(草思社)

この一見矛盾した行動を見れば、さきほどの質問の本当の意味は明らかだろう。文明社会に生きる以上、道徳以外の理由(習慣、保守、罰への恐れ、予想される利益など)によって、法の遵守を求められることが多い。だが、道徳上どうしてもやむを得ない場合は法に背くことも必要になる。

ここでひとつ難しい問題が生じる。どうすれば、法を遵守する日常、ともすれば主体性を失い、疑問すら抱かず、道徳観すら眠らせてしまいそうな日常生活のなかでも、いざとなったら奮起する勇気を維持しておくことができるだろうか。これこそ、質問者が求めている答えではないだろうか。

非人間的な法律に対し、反抗心を燃やすのはどんな人間だろう。どちらかといえば反抗的な、質問者のように、法に疑問を抱いている人だろうか。それとも、何の疑問も抱かず、法に従う法律尊重主義者だろうか。

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