地元の主婦たちの後押しでスーパーに進出

地元の人たちの食欲を安価で満たしてくれる良心的なパン屋ではあったが、商売っ気はなく苦労が尽きなかった。福田社長は当時の雰囲気を、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に出てくる、家族経営の小さな自動車修理工場と重ね合わせて懐かしむ。

そんな福田パンに転機が訪れたのは約40年前。大手スーパーマーケットの「サティ」に商品が納入されることになったのだ。しかも驚きなのは、福田パンから営業活動をしたわけではなく、地元の主婦の後押しだった。

「うちの店の近所の人がサティにパートへ出ていて、売り場担当のチーフの方に提案してくれたそうです。『じゃあ、1度持ってきなさい』となって、採用に至ったみたいです」

スーパーとの取引が決まったことで、きちんと商品名を印刷したパッケージを慌てて作るほど、予期せぬ出来事だった。

サティに商品が並ぶと、盛岡市内の他のスーパーからも引き合いがあり、一気に販売流通網が広がった。ようやく貧乏から脱却でき、「普通のサラリーマン家庭並みの生活にはなった」と福田社長は目を細める。

撮影=プレジデントオンライン編集部
「幼い頃は貧乏だった」と振り返る福田社長。壁には1号店・長田町本店の絵が掲げられていた。

注文を受けてから作る「出前スタイル」

売り上げが伸びるにつれて、幾つかのスーパーからは盛岡市外の店舗にも卸してほしいという要望が出てきた。けれども、あくまで市内のみの提供にとどめていた。それには理由がある。当時、福田パンはスーパーからの注文を受けてからパンを製造していたからだ。

「出前と同じで、注文ごとに商品を仕上げていました。例えば、ある店舗からあんバター5個、ジャムバター3個、ピーナツバター3個という注文が入ったら、そこからパンにバターを塗って簡易包装をする。それが5店舗分そろった段階で、配達に出て行くという感じでした」

人員も限られているため、こうしたやり方だと物理的に盛岡市外まで配達するのは難しかった。ただ、断っても熱心に頭を下げ続けるスーパーもあった。ついには根負けした福田パンは、作業工程を工夫するなどして、配達エリアを少しずつ広げていき、福田社長が家業に入った時には花巻市の店舗まで届けるようになっていた。