死の間際の乳母が秀忠に語ったひと言

その後の判断も、凡庸で鈍感な人物によるものとは思えない。

翌年の大坂夏の陣で大坂城が落城する寸前、秀忠の長女で秀頼に嫁いでいた千姫は、大坂方の大野治長のとりなしで、秀忠らの陣所に届けられた。目的は茶々と秀頼の助命を嘆願することだった。その際、家康は千姫が助けられたことをよろこんだが、秀忠は「秀頼と一緒に焼死すべきところを、出てきたのは見苦しい」とはねつけ、対面しなかったという(『大坂記』など)。

秀忠のこの判断について、福田千鶴氏は「ここで千に会ってしまえば、義母茶々と夫秀頼の助命を嘆願されることになり、娘を前にした父親が往々にして示す優しさによって、将軍としての決断が鈍ることを避けたものととれなくもない」と記す(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。卓見ではないだろうか。そうであれば、凡庸な人物の判断とは到底いえない。

秀忠の乳母は大姥局おおうばのつぼねといい、元来が今川義元の家臣の妻で、家康はまだ竹千代といって駿府で過ごしていたころから、彼女のことを知っていたという。大姥局が秀忠をどう育てたか、具体的な記録はないが、死に際の逸話が残されている。病床を見舞った秀忠が、なにか望みはないかと聞くと、ないという。しかし、秀忠が帰ろうとすると「殿、殿」と呼び、「私の子が流罪になっているが、私を哀れだと思って罪を許したりしないように。天下の法を曲げてはいけません」と説いたという。

こうした教えが秀忠には、若いころからしみ込んでいたのだろう。

家康にもできなかった冷徹な処断

大坂夏の陣後、家康は一国一城令で諸大名の城の多くを破却させ、武家諸法度で大名が守るべきことを規定し、禁中並公家中諸法度で天皇や公家は学問に専念するように定めた。戦乱を防いで徳川の世が永続するように、万全の布石を打った。とはいえ、秀忠が凡庸であればその布石を活かせなかっただろう。

元和2年(1616)4月17日に家康が死去したのち、秀忠が最初に行ったのが、家康の六男で実の弟である忠輝の処分だった。伊達政宗の娘婿で謀反の噂もあった忠輝には、すでに家康が大坂夏の陣での不戦などを理由に謹慎処分を課していたが、秀忠は所領を没収し、伊勢(三重県)に流したのだ。続いて、兄の秀康の嫡男、松平忠直を改易にしている。まずは将軍たる自身の地位を脅かしかねない近親者を処断したというわけだ。

続いて、元和5年(1619)には豊臣恩顧の大名の代表格で、49万8000石の福島正則を改易にした。居城の広島城(広島県広島市)が洪水で破損した際、幕府に無断で石垣を修復し、武家諸法度に違反したというのが理由だった。正則は関ヶ原合戦の功労者だが、その後も大坂との関係が取り沙汰されていた。家康には功労者を切ることはできなかったが、しがらみがない秀忠にはできたのである。

福島正則画像(写真=東京国立博物館所蔵品/PD-Japan/Wikimedia Commons

正則の改易に外様大名たちは震え上がり、効果絶大だった。改易のタイミングも冴えていた。「このとき、秀忠はかなりの兵を随えて上洛しており、その中に、正則の子忠勝が福島家の家臣団の一部を率いていた。正則は江戸城にいたので、そこにも家臣団がおり、本拠広島城にも家臣団の一部が残っていた。つまり、福島家の家臣団は三分割される形になっていたのである」(小和田哲男『徳川秀忠』PHP新書)。

反抗できない時期をたくみにねらっている。