全国に徳川家の支配を行き届かせた

また、正則が去った広島城には、和歌山城(和歌山県和歌山市)から浅野長晟ながあきらを移し、和歌山には家康の十男の徳川頼宣を入れた。実の弟を大坂の南方の要地に置き、西国の監視をさせることにしたのだ。

こうして秀忠は40以上の大名を取りつぶし、改易された領地が重要な位置であれば、そこには必ず譜代大名か親藩を置いて周囲の監視体制を強めた。西国を監視し、陸海の交通ルートを幕府が掌握するために、大坂を直轄地にしたことも重要だった。

しがらみにとらわれないドライな施策を重ね、全国に徳川家の支配を行き届かせた秀忠。家康は事実上、東国の大名に対する指揮権しか握っていなかったが、それを西国まで根づかせたのは秀忠の功績だった。

むろん、すぐれた父がお膳立てを整え、その教えに忠実であったからこそ、体制を固めることができたのだが、秀忠がドラマで描かれるように凡庸であったなら、これほどのことを成し遂げるレベルにまで、突然変異のように能力が高まることは、難しかったのではないだろうか。

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