いったん勝利したが、倍の人数の追撃隊に襲われ……
大坂方は「柵を返せ」とばかりに容赦なく銃撃を仕掛けた。その上、すかさず鑓兵を押し出し、佐竹軍をかき乱す。熾烈な白兵戦が始まった。
剣戟の音が湿地帯に鳴り響き、敵味方の死傷者が続出する。その最中、銃声と共に、鑓を手に督戦していた佐竹家老・渋江政光が斃れる。不慮の死であった。享年41。
佐竹軍は、政光の戦死だけでなく指揮官クラスを「廿四、五(24~25)騎討死」させるほどの大苦戦を呈した。だが、日が暮れる頃には、大坂方の軍勢を全て追い払ってしまう。
こうして今福の地は幕府軍のものとなった。その夜、義宣は平野に在陣する将軍・徳川秀忠に15の首級を送り届けた。佐竹軍は、今福の制圧と確保に成功したのだ。
今述べた戦闘は、ほとんど佐竹方の記録から再現したものである。
ほとんど佐竹軍単独で、今福の制圧と防衛に成功したようである。
佐竹家中の記憶から消された歴史
特に『譜牒余録』『寛政重修諸家譜』『義宣家譜』などにある佐竹家中の報告に基づく文献では、すぐ隣にいたはずの上杉軍の動向について一言も触れておらず、佐竹軍が単独で戦っているかのような印象が色濃く残されるようになっている。
だが、事実はそうではなかった。
確かに上杉氏の諸記録を見ると、義宣は緒戦で今福の地を制圧している。そしてその後、反攻のため現れた大坂方の大軍に苦戦した事実も記されている。
だが、義宣は単独でこれに抗しきれず、義宣が「退くな」と叱咤しても兵は誰も踏み止まろうとしなかった。もはや必敗の劣勢である。
景勝はこれを隣から見ていた。
大坂方の豊臣兵は人数が多く、しかも士気の高い指揮官に率いられている。更なる増援もあるに間違いない。
勝敗は明らかで、もしこれを無理に覆さんとすれば、相当の痛手を負うだろう。どうみても佐竹軍を救える状況ではない。今福に向かったら、絶対に大変な目に遭う。
ここで上杉景勝は今福に兵を進ませる。
大坂冬の陣最大の激闘が始まった。
この交戦で上杉・佐竹の両軍は少なくない犠牲を払いながらも共闘し、幾度も押し合った後、申の下刻(午後4時過ぎ)に大坂軍を全て後退させた。戦闘は終わったのである。
戦友を救った上杉軍の敢闘はこの上ない「名誉」として諸記録に賞賛されている。だが、佐竹氏の記録では上杉軍の戦績を記していない。
合戦を見ていた者の覚書(『紀伊国物語』上巻)では、上杉軍は兵を「四備」に分けて自在に動いたが、佐竹軍は用兵に「不案内」で、「佐竹足軽軍法もなくかさなり合て」と書かれるほど歩兵の統制に欠いていた。そこを敵軍に突かれ、苦戦したのである(「本多藤四郎覚書」)。