武功派の武将たちを激怒させた三成の告げ口
では、なぜ三成は襲われたのか。笠谷和比古氏は『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書)で、2度目の朝鮮出兵である慶長の役の際に、朝鮮半島から捕虜として連行された朱子学者である姜沆の『看羊録』に記された内容を重視する。
姜沆によれば、朝鮮半島で戦う諸将が、明と朝鮮の軍を追撃できる状況なのにしなかったことを、軍目付の福原長堯が三成をとおして秀吉に訴えたという。それを聞いた秀吉は激怒し、加藤清正、蜂須賀家政、藤堂高虎、黒田長政らが譴責され、一部の武将は領地まで奪われ、それが福原への恩賞に充てられた。そこで清正らは帰国後、福原を討とうとしたが、三成が妹婿である福原を擁護したので、武将たちは三成を襲撃した――。『看羊録』の記述はそんな内容である。
諸将が明と朝鮮の軍を追撃しなかったのは、いわゆる蔚山の籠城戦のときのことだ。明と朝鮮が5万の大軍で包囲するなか、清正や幸長は蔚山城に籠城し、飢餓地獄を味わいながら、蜂須賀家政や黒田長政らの救援を得て九死に一生を得た。そんな状況では、心身ともにとても相手を追撃する余裕などなかっただろう。
だが、福原長堯は、常に積極的な戦いを要求する秀吉に「忠実」で、三成もその姿勢に理解を示したために、「武功派」と呼ばれるような武将たちとのあいだに、拭いがたい軋轢が生じたといえよう。
こういうことに忠実な人間は危うい
それ以前にも「武功派」の武将たちとの軋轢が生じる事件があった。いわゆる秀次事件である。秀吉の甥の豊臣秀次は関白の座を追われた挙句、文禄3年(1594)7月15日に切腹した。その後、8月2日には、秀次の3人から5人の実子のほか、正室、側室、妾や女中ら三十数人が、京都市中を引き回されたのちに三条河原で首を斬られた。それも衆人環視のもと、三宝に載せられた秀次の首を拝まされ、時間をかけて惨殺された。
このとき残虐をきわめた処刑の現場を仕切ったのが、三成のほか増田長盛、長束正家、前田玄以の、いわゆる四奉行だった。これは歴史学を離れた筆者個人の感覚だが、こういうことにも「忠実」になれる人間には危うさを感じざるをえない。
しかも、藤田達生氏は、秀次事件を「仕掛けた側の石田三成ら秀吉側近グループによる豊臣一門大名の除去をめざしたクーデター」ととらえる(『天下統一』中公新書)。すなわち、事件は7月3日に三成らが、秀次に謀反の疑いがあるとして糾弾したところからはじまり、凄惨な粛清劇の結果、「石田三成や増田長盛ら秀吉側近グループは畿内要地を預かる大名へと躍進した」と記す。
ひたすら秀吉に「忠実」で、集権的な政権の樹立に邪魔なものは排除しつつ、自分たちの権利を拡大する、という三成らの姿勢がほかの大名たちの反発を買い、豊臣政権内の派閥抗争が表面化した、ということである。