長久手の合戦の時点では直政の働きはイマイチだった

また、長久手の合戦で、先鋒の「井伊隊士は敵を目前にして隊列を乱してしまう。これを見た家康は『木俣めはなきか。腹切らせ候わん』と、木俣守勝が隊士にうまく指示を出せていないとして立腹したという」(野田浩子・前掲書)。家康は直政を一人前の部将とは思っておらず、副将の木俣こそが部隊の中核だと考えていたのだろう。

実際、長久手の合戦での直政の働きは、旗本「一手役之衆」としてイマイチだったらしい。「合戦が始まり、鉄砲隊の攻撃の後、騎馬武者による合戦になると、直政自身が敵の中に駆け入って敵の母衣ほろ武者と組み合った。家康家臣の安藤直次はこれを見て(中略)大将は戦闘の様子を見て隊の進退を指揮するのが役割であるとして、一武者のように敵と組み合う行為は大将がするものではないと忠告したという」(野田浩子・前掲書)。直次が老練な部将だったわけではない。当時31歳、直政より7歳年長なだけだ。

部下の武将たちが恐ろしく強かったから名声が高まった

しかしながら、長久手の合戦で池田恒興・森長一(長可ながよし)を討ち取った「井伊の赤備え」は、秀吉軍に大きなインパクトを与えた。

家康軍は遠江で何度となく「山県の赤備え」に苦汁を吞まされていたが、そもそも秀吉軍は「赤備え」軍団を見たことがなかっただろうから、「井伊の赤鬼」の評判が高まったのは不思議ではない。井伊直政は名将ではなかったが、「井伊の赤備え」が恐ろしく強かったから、そのトップに据えられた直政が猛将だと認識されたのだ。

直政の妻は松井松平周防守忠次(一般には康親)の娘である。松井忠次は東条松平家の家老で、のちに家康から松平姓を賜った。

弘治2(1556)年に日近ひぢか城の奥平貞友が今川家にそむいた時、家康が今川家の人質で、父・広忠は天文18(1549)年3月に急死していたため、家康の名代として東条松平家の松平忠茂が岡崎の兵を率いて日近城を攻めたが、討ち死にした。

忠茂の遺児・家忠が幼かったので、母方の伯父・松井忠次が家宰を代行した。ところが、この忠次が猛将だったので、家康から松平姓を賜り、常に武田・北条に対する最前線を任された。忠次は家忠の補佐役も兼ねていたから、家忠も最前線に配置された。

出典=『徳川十六将 伝説と実態』(角川新書)