武将としてのデビューは22歳のとき和睦の使者として

「確実に言えることは、日常的には浜松に在住して浜松城主の家康に近侍しており、家康が出陣した折にはそれに御供し、配下の者を指示して敵と交戦する機会もあったが、基本的に本陣に配され、馬廻りとして主君を護衛する役割にあったという程度であろう」(野田浩子『井伊直政』)。

10代の直政は、参陣の経験はあるが、本格的な戦闘には及んでいなかったのではないか。

直政が名を上げるのは、天正10(1582)年8月の甲斐若神子わかみこ合戦である。しかし、この時も先陣を切ったとか、大将首をあげたとかではなく、22歳の若さで和睦の使者に派遣されただけだ。

また、家康の甲斐侵攻で、直政は武田旧臣を徳川家に帰属させる交渉を行い、奉行人として活躍している。武田旧臣の本領を安堵あんどする安堵状、もしくは宛行状あてがいじょうが200通以上確認されているが、直政は67通を発給し、トップの件数を誇っている。

われわれは、のちに井伊直政が「井伊の赤鬼」と呼ばれる猛将であることを知っている。そのため、本多忠勝のような、若年から「戦の申し子」であるように錯覚してはいまいか。ここまでの履歴を見る限り、直政は部将ではなく、文官として活用されていたのだろう。戦国時代の識字率は相当低かったと想定されるが、直政は寺で修行した経験があり、文官として有用だったのだ。

本能寺の変後の甲斐・信濃経略が成功し、徳川家は5カ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)領有の大大名に躍進。旗本「一手役之衆」の中から鳥居元忠・平岩親吉を甲斐の抑えとして手薄になったため、直政を抜擢したのだ。

直政は若かりし頃かなり気が強かったらしい。家康が旗本「一手役之衆」に登用する必須条件である。家康は直政を旗本「一手役之衆」に登用するにあたり、自らの近臣3人を直政の直臣とし、武田旧臣および関東牢人ら117人を与力に附けた。さらに天正12(1584)年には井伊谷三人衆を与力とした。

井伊谷三人衆とは、もともと井伊家を支えていた有力者である。「家康が進出してくる直前頃の井伊氏では、一門・重臣・同心の『七人衆』が中核となって政務をみていたと推測できる」(野田浩子・前掲書)。そのうちの3人(井伊谷三人衆)が、永禄11(1568)年、家康に同心して井伊谷に招き入れ、家康の遠江経略に大きく貢献したのだ。

直政が率いる「井伊の赤備え」は武田旧臣が主力の混成部隊

『井伊直政』の著者・野田浩子氏は「井伊谷三人衆は、直政の召し出し当初は附属されず、家康の直臣として活躍している。彼らは軍事的能力に優れていたため、その能力を活かすには軍事的に重要な場所に配置するのが有効と考えられたのであろう」と述べている。当初、家康は直政を文官として登用するつもりだったから、すぐさま井伊谷三人衆を与力としなかったという見方もできよう。

直政が率いる部隊は武田旧臣が主力であり、異なる出自の者からなる混成部隊だったから、甲冑を朱色で統一することで一体感を醸成した。いわゆる「井伊の赤備え」である。旧武田軍では兵部少輔ひょうぶのしょう虎昌とらまさの部隊が赤備えをはじめ、虎昌の切腹後に実弟の山県三郎兵衛尉ひょうえのじょう昌景が赤備えを継承した。家康は武田信玄を信奉していたから、その最強軍団「山県の赤備え」にあやかって、直政の部隊を再編成したのだ。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)
「井」の旗印を掲げた赤備えの井伊直政軍が先陣を切る様子 狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただし、当初、家康は「井伊の赤備え」の事実上の部隊長を直政ではなく、木俣きまた​守勝もりかつだと考えていたらしい。天正11(1583)年、信濃高遠口に「井伊の赤備え」を派遣した際、「直政自身は出陣しなかったが、木俣守勝が甲州の諸士を率いて高遠口へ向かったという」(野田浩子・前掲書)。たとえば、本多忠勝の部隊が忠勝抜きで行動したという話は聞いたことがない。