信長にはなれないが信玄にはなれる

「同じ石に2度つまずくな」と、古代ローマの哲学者キケロは言いました。

誰でもつまずきはあるもの。問題は最初のつまずきから、いかにしてその後の教訓を得られるかが、人生の分かれ目です。

元来が小心者で、なにごとにつけても疑い深く、慎重で、軽快な動きが苦手。それでいて、本来は短気で激越家げきえつかの家康です。彼に天下を取らせた秘訣ひけつがあったとすれば、失敗にも、敵にも、歴史にも学ぼうとした、その貪欲な姿勢ではないでしょうか。

過去に学ばない者に、未来は設計できない、ということを、家康ほど心得ていた人間はいなかったと思います。

密かに信玄を自らの手本とするとの決意の底には、「信玄ならば、努力すれば近づくことができる」との思いもあったはずです。

三河も甲斐も、農業国であり田舎です。信長が持つ尾張のように、商いが盛んで、1足す1が2以上になる世界とは、土台のところが違っています。

そして「勝ちは五分を上とする」という、信玄のパーフェクトゲームを望まない姿勢は、家康の肌に合っていたに違いありません。

信玄の死に対し家康が送った言葉

三方ヶ原で家康を大敗に追い込んだ信玄は、戦いの翌年1573(元亀4)年4月、病がこうじて西上途上の信濃国駒場こまんばで亡くなります。

加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)

家康は、信玄死去の報を聞いて、こう言ったといいます。

「隣国の名将の死を喜ぶ気持ちはない。私の心底はこのようなものだから、家中の下々までも、そのように心得よ。

隣国に剛敵があると、こちらは武道を励みたしなむようになり、また国の仕置きに関しても、敵国の外聞をはばかって、自然に政道にも違わず、家法も正しくなるという道理であるから、つまりは味方が長久に家を守ることができるもとというものだ。

さてまた、隣国にこのような剛敵がなければ、味方は弓矢の嗜みも薄く、上下ともにうぬぼれて、恥を恐れることがないので、ついには励むことを忘れ、年を追って鉾先ほこさきが弱くなるものであるから、信玄のような敵将が死んだのは、少しも喜ぶことではない」

家康が、信玄に対して単に優れた武将としてだけではなく、領国経営のトップとして、さらに武田家の総帥として、深く敬意を表していたことがわかります。

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