マトリョーシカと七福神人形について言われていること
①明治期、日本に来たロシア人が、入れ子の箱根七福神人形を気に入って持ち帰った。
②アブラムツェヴォのマモントワ夫人が、それをもとにした人形を作ることを発案した。
③ろくろ師ズヴョーズドチキンが型を挽き、画家マリューチンが絵付けをしてマトリョーシカが誕生した。
④その後マトリョーシカは1900年のパリ万博に出品され、メダルを獲得して有名になった。
このうち、④についてはここまで紹介しそびれたが、例えば1997年にモスクワで出たアルバム『マトリョーシカ』には「1900年、マトリョーシカは、パリ万国博覧会に展示されてメダルと世界的な名声を獲得しました」[サラヴョーヴァ2010:22]とあり、同様の記述が日本でもロシアでも随所に見られる。
だがそれならメダルや賞状の写真が残っていそうなものなのに、これが見当たらない。この問題については本書の第六章で検討する。
日本とロシアの橋渡し役は見つかっていない
4つの言説のうち日本人が想像をたくましくしたのは①だった。②③④については外国のことなので検証すべくもないが、七福神人形を入手しロシアへ運んだのは誰か、についてなら考える余地があったからである。
事実、七福神の故郷と目される箱根は横浜に近く外国人に人気の保養地であったし、日本ハリストス正教会の避暑館もあった。それをもとに、「誰が七福神を日本からロシアに運んだか」についてさまざまな推測がなされた。
いわく、マモントワ夫人本人が日本へ来たのだろう、神田にニコライ堂を建てたニコライ神父か正教会の関係者だろう、松山の収容所に収監されたのち帰国した日露戦争のロシア人捕虜ではないか、プチャーチン提督の娘オリガが来日した際に持ち帰ったのかも……。
しかし、残念ながらこれらの人々が日本で七福神人形を買った、あるいはロシアに持ち込んだ、という記録は見つかっていない。「誰か」が日本とロシアの橋渡しをしたに違いないのだが……という期待感だけが今も持たれている状況である。