名門・北辰一刀流の創始者は元農民

例を挙げれば枚挙にいとまがないが、有名な人物だけを列記しよう。

北辰一刀流を創始した千葉周作は玄武館の道場主として堂々たる武士のいでたちをしていたが、本来の身分は農民だった。天保12年(1841)、48歳のときに水戸藩徳川家に召し抱えられることで士籍を得て、正式に武士になった。

しかも、千葉周作の成功はめざましかった。神田お玉が池の玄武館は敷地が約三千六百坪あり、大身の旗本に匹敵するほどだった。

神道無念流の、練兵館の道場主斎藤弥九郎も農民の出身だった。

柳剛流の道場主岡田十内も農民の出身で、牟田文之助は『日録』に――

右十内と申人ハ、本百姓ニ而、江戸牢人と申居候也。

と記した。つまり、岡田十内は本来は農民だが、表向きは江戸の浪人と称しているようだ、と。

そもそも、柳剛流の創始者の岡田惣右衛門が農民の出身だった。

直心影流の道場主の男谷精一郎は、曽祖父は越後出身の盲人の高利貸だった。曽祖父が金にあかせて息子に旗本の身分を買ってやった。おかげで男谷家は旗本になった。表向きは禁じられていたが、幕臣の身分は「株」として売買されていたのである。

2人の農民が新選組をつくり、武士に成り上がった

もっとも有名な例が、新選組の近藤勇と土方歳三であろう。ふたりとも本来の身分は農民だったが、幕府の瓦解がかい直前に幕臣に取り立てられ、正式に武士となった。それまでは、浪人という建前で腰に大小の刀を差していたのである。

永井義男『剣術修行の廻国旅日記』(朝日文庫)

このように、剣術で頭角を現わすのは武士の家に生まれることや、武家の血筋であることとはまったく無関係である。持って生まれた才能と、その後の努力できまった。

多くの事例を見るうち、庶民のあいだに、「たとえ百姓に生まれても、剣術で強くなりさえすれば武芸者を称し、武士に成り上がれる」という自信が芽生えてきた。

こうして、あたらしい人材の参入が剣術界に活気をあたえ、活性化したのである。

千葉周作が水戸藩に召し抱えられたように、剣術界で評判が高くなれば諸藩の剣術師範に登用される可能性もあった。というのも、江戸時代後期になって諸藩が次々と藩校を開設するなかで、藩校道場の師範という魅力的なポストが生まれていたのだ。

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