オタクはマインドではなくタグになった

働いているときも、ご飯を食べているときも、トイレにいるときも、寝ているときも、自身がオタクであるということは変わらない。また、その対象のことが好きである期間は、ずっとオタクなのである。しかし、「オタ活をする」という言葉は、自身の興味対象を実際に消費する際に使われる言葉であり、その動作(購買、視聴、イベント参加)が終わると、その「オタ活」は終わりを迎える。

「週末はオタ活する予定」は、何かしらの自身の趣味に関する予定が週末にあることを示し、「オタ活するのが忙しい」は、グッズやCDなどの発売日が重なっていたり、いくつものライブに参加予定で、時間的にも経済的にもやることや消費するコトが多くスケジュールが詰まっていることを示している。

筆者はオタクが状態を表す永続的なマインドであり、寝ているときも働いているときも常にオタクはオタクであり、オタク活動は、オタクを引退するまで終わりは来ないと考えている。しかし、オタクが人を表す総称から、興味対象を指す総称としての意味を含むようになったことで、オタクはマインドではなく、つけ外しが可能なタグのような役割も持ったのである。

そのため、興味対象を消費している、オタクとしての消費が顕在化している動作をあえて「オタ活」と呼称することで、自身のアイデンティティの切り替えや、オタクとしてのオン・オフを行っていると筆者は考えている。

(もちろん、若者が昨今使うようになった以前から、オタクの中でも「オタ活」という言葉は使われていた。オタク自身も特別な消費を行う際に「オタ活」という言葉をあえて使用していたことも留意したい。)

写真=iStock.com/Marco_Piunti
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オタ活でもタイパを追求する若者たち

さて、若者のオタ活についてここまで説明したことで、筆者が抱くタイパやコスパに関する疑問に触れることができる。

従来の文脈で言うエリートオタク(今で言うガチヲタ)の消費やコンテンツ嗜好しこうに対する価値観と、一人の消費者がいくつもの興味対象を持ち、その対象それぞれをオタク趣味と自認し、さまざまなジャンルやコンテンツに対して「自分はオタクです」と自称する若者文脈で言うオタクの価値観とでは、その性質は大きく異なる。

とはいえ、少なからず後者においても、そのコンテンツが好きだから消費するという点は従来のオタクと違いはないだろう。将来へのビジョンが見出しにくい場合、消費は現在志向になりがちになる。エリートオタクと同水準とまではいかないが、カジュアルに楽しむ層にとっても、オタ活はその日その日を乗り切るための活力となり、精神的充足の側面を擁しているはずだ。それなのに、そのオタ活でもタイパやコスパを追求する者がいるのだ。それが合理的なものなら筆者もわざわざしたためない。