三度にわたり、家康本陣に突撃した信繁軍

5月7日の正午頃、ついに徳川方と豊臣方は激突した。天王寺方面では、両軍入り乱れての大混戦となった。「赤備」の真田信繁の軍勢約3000は、家康の本陣をめがけて突入し、多くの戦死者を出した。信繁は果敢にも三度にわたって家康の本陣に突撃したので、徳川方の歴戦の強者でさえも逃げ出したという。

真田信繁/真田幸村肖像画(写真=上田市立博物館所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康に従っていたのは、本多政重まさしげ金地院崇伝こんちいんすうでんだけだったといわれている(諸説あり)。この戦いが激烈を極めたのは、徳川方の将兵の奮闘ぶりを見れば明らかである。

松平忠直は八尾・若江の戦いで積極的に動かなかったので、家康の不興を蒙っていたといわれている。忠直は名誉を挽回すべく、約1万5000の兵を率いて出陣した。いざ戦いがはじまると、忠直は軍令違反を犯してまでも、茶臼山に攻め込んできた敵兵を蹴散らし、3750もの首を取ったという。

戦功をあげるために戦い、討死していく武将たち

小笠原秀政は子の忠脩ただなが忠真ただざねとともに出陣したが、やはり八尾・若江の戦いで十分な戦功をあげることができず、家康から叱責されていた。そのような事情から、小笠原親子の戦いにかける意気込みは並々ならぬものがあった。結果、秀政は重傷を負ってその日のうちに亡くなり、忠脩は討死した。忠真は戦死こそ免れたが、7カ所もの深手を蒙ったといわれている。

本多忠朝は、大坂冬の陣の戦闘時に酒を飲んでいたため豊臣方に敗れたといわれている。持ち場の不満を述べたので、家康の不興を蒙っていた。忠朝も汚名をすすぐため、命を懸けて毛利勝永の軍勢に突撃し、華々しく討死した。死の間際、忠朝は「酒のために身を誤る者を救おう」と遺言したといわれており、その死後は「酒封じの神」として崇められるようになった。