性分が似ていた母娘

母親が過敏な人間であったから、私がかんの強い子であったとするならば、それは母親自身がそうだからで、まぎれもない親子の証として彼女も自らの性分を呪うべきものであったはずである。もしそうでなかったとしたら、彼女の愚かさは私の責任ではあり得ない。因果律が逆転するならあり得るけれど、さすがにそれがわからないほど自分は愚かに生まれついてもいない。これは、実は不幸なことだったのかもしれない。

中野信子『脳の闇』(新潮新書)

そして他罰的な大人に合わせて自己犠牲的な振る舞いができるほど、私は表面的な共感や親切心に対する抵抗が薄くはなかった。これも、残念と言えば残念なことだったのかもしれない。こういう基準が互いに交点を持つことがないまま、血縁があるというだけでどちらかに合わせるべきだと社会から圧を加え続けられる関係というのはもう、まともな神経では耐えられないと思うのだが、どうして多くの人は見ないふりができるのだろう。

自分はいい人です、をアピールするための、表層的ないい人の仮面ほど気持ち悪いものはない。相手の事情を考慮するという発想すらなく、相手の存在は100%、自分がいい人であるための道具として使われている。もちろん、社会的にはその人が悪いのではなく、気難しく生まれついている私がもう完全に悪いのではある。

けれど、一度その気持ち悪さを感じてしまうと、その人とまともに触れ合うことは難しい。話すこともきつい。実際に蕁麻疹じんましんが出てくるレベルできつい。私は認知だけでなく身体も気難しくできていることを、自分で思い知ってまた悲しくなってしまう。自分は常にいい人であると思いたい、そう世間にもアピールしたいという1ミリも傷つきたくないタイプの人は、私に近づかないほうが良いと思う。

写真=iStock.com/Warumpha Pojchananaphasiri
※写真はイメージです

人が人に見えない

私にとって、人が人には見えないことも多い。もちろん視覚は生きているので顔は見えている。けれど、顔よりもその人の感触で相手を見てしまうことが多い。こういう病気を定義することができるのではないかとさえ思う。実際、相手を見て触覚が惹起され、そのせいで関係がうまく築けなかったり、叫びだしたくなったり、時には蕁麻疹さえ出るなんて、健常とするには私はやや外れているのだろうとも思う。

もちろん、相手が満足するいい人の仮面なぞ、自分の気持ち悪ささえ抑えられれば、一瞬でいいなら簡単につくることはできるだろう。けれどそれを、意志の力をもって長期間、保ち続けることは難しい。

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