東大剣道部は内務省と二人三脚で発展した
余談だが、筆者は東京大学在学中、運動会(他大学の体育会)剣道部に在籍した。東大剣道部は、明治20年に撃剣会とし発足している。初代師範の榊原鍵吉は元幕臣で、直心影流の使い手だ。明治維新以降、逼塞していたところを、新政府に登用される。明治10年の西南戦争の田原坂の戦いで、川路利良大警視が率いる抜刀隊の活躍を受けて、警察が剣術を奨励するようになったからだ。明治政府には、これ以上の反乱を防ぐため、失職した武士を警察官として雇用するという思惑もあったのだろう。
その後、東大剣道部は、内務省と二人三脚で発展する。
榊原に始まり、現在に至るまで、東大剣道部の師範は警視庁剣道指導室主席師範の指定席だし、東大剣道部は多くの内務官僚を育てた。戦後10人が全日本剣道連盟の会長に就任しているが、8人が東大剣道部OBで、戦後の幣原内閣で検事総長、吉田内閣で司法大臣を務めた初代会長の木村篤太郎をはじめ、多くが内務省関係者だ。
現在も、東大剣道部卒業生の就職先として多いのは、総務省、警察庁、国土交通省、厚労省などの旧内務省系の役所だ。財務省や外務省は少ない。私の知る限り、外務省に進んだOBはいない。これが、東大剣道部の「内在的価値観」だ。
日本初の総合的衛生制度「医制」は文部省の所管だった
話を戻そう。府県知事の官選制が確立すると、内務省の中心は警保局と地方局となる。では、医療はどのような扱いだったのだろうか。
明治政府が医療行政の整備に着手したのは明治7年だ。日本初の総合的衛生制度である「医制」を交付する。中心となったのは、大久保らとともに岩倉使節団の一員として海外を歴訪した長与専斎だ。長与は大村藩に代々仕える藩医の息子で、緒方洪庵の適塾や長崎の医学伝習所などで西洋医学を学ぶ。文部省医務局長や東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長などを兼務した明治の医学界の大物だ。優れた医学者だったようで、「衛生」という言葉は、Hygieneの訳語として長与が採用したと言われている。
事態が迷走しはじめるのは、翌8年に「医制」の所管が、文部省から内務省に移ったころからだ。明治16年に内務卿に就いた山縣有朋と長与は肌が合わなかった。山縣は、衛生局次長に、軍医本部次長の石黒忠悳を充てる。
石黒は、現在の福島県梁川生まれで、幼少期に父母を亡くす。苦労して、幕府医学所を卒業し、医学所句読師となるが、明治維新で職を失う。その後、松本良順の紹介で、兵部省に入り、草創期の軍医となる。
苦労のなせる業か、石黒は処世術に長けていたようだ。山縣有朋だけでなく、薩摩閥の軍人のトップである大山巌や児玉源太郎からもかわいがられたという。一方で、部下には厳しかったらしい。森鴎外との確執は有名だ。