北欧で起きた深刻な人手不足

北欧諸国の場合、第2次世界大戦の被害をほとんど受けなかったことが一つ目の要因です。戦後にアメリカ主導で始まったマーシャルプランによる復興が進むと、北欧諸国の無傷な工場がフル稼働することになります。そこで深刻な人手不足となった。これが「戦後まで女性の社会進出が続いた」大きな理由です。

北欧諸国は、国土がそこそこ広い割に、人口は少ないので、工場周辺で労働者を募るのも大変だったのでしょう。近隣に住んでいるなら性別問わず働いてもらう、という流れになっていきます。

と同時に、北欧諸国は天然資源や観光資源に恵まれ、社会全体が豊かでもあり、古くから福祉国家として医療や介護が充実していました。社会活動が盛んになる中で、高福祉を維持するためには、医療・福祉系人材のさらなる拡充が必要になります。そのことも、女性の社会進出を後押ししました。こうして北欧ではいち早く、女性の社会進出が始まった、と考えられます。

加えてノルウェーでは、1980年代初頭に北海油田の開発が加わり、景気はさらに過熱して人手不足が高進します。一方では、原油収入による税収増加で余裕資金も増えます。これで、女性活用促進に公的な助成がつけられ、クォータ制など大胆な女性活躍支援策が打たれました。

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各国ごとに女性進出の背景は異なる

続いて、50年代後半ころからアメリカに変化の兆しが現れます。こちらはひどすぎた人種差別が、社会の各所で歪みを生み出し、修正圧力が高まってきたことがその理由と言えるでしょう。結果、人種問題だけでなく、ジェンダーに関しても光が当てられ、60年代になるとウーマンリブも盛んになる。こうした差別撤廃に根差した公民権運動が労働をも大きく変えました。

当時のアメリカでは、長期雇用は当たり前であり、一つの工場に親子2世代が務めるケースなども、まま見られた牧歌的な社会でした。そして、細かく区切られた職務等級をちょっとずつ上っていくという形で年功的に昇給が起きます。その様は後の日本型雇用のある面での手本になったという研究者もいます。ところが、この慣行は公民権運動の中では、年長×白人×男性への偏った高給優遇として批判を浴び、壊されていくのです。こうして、平等化と引き換えに、アメリカ型の不安定雇用が広まっていきました

北欧やアメリカで女性活躍が進み始めたころ、フランスでは、ナポレオン法典の残滓として、かなり男尊女卑の風潮が色濃く残っていました。女性たちは反発を強め、1968年の五月革命時、精神的・経済的・性的な自由を獲得するために声を上げます。そして、法的な結婚をしないカップル(ユニオン・リーブル)が、流行を始めます。結果、少子化がとても速いペースで進行しました。この点、フランスは日本の大先輩にあたります。そこで、危機感を抱いたフランス政府は、結婚しても働ける、子どもがいても働けるという「女性に多彩な選択肢」を用意する政策を行います。これが女性進出の流れを作りました。